2014年8月18日月曜日

硫黄島の戦い



終戦記念日にTVで硫黄島からの手紙という映画をやってたので見た。


映画ではイオウジマ・となっているが、あれはアメリカの呼び方で

正式にはイオウトウ ・という島なのです。





東京都に属する小笠原諸島、硫黄島

近くには父島 母島がある。


東京都から南へ1250キロの距離である。






島の長さは8キロしかなく、幅の狭い所は800mに満たない。

その南海の孤島に日本軍の飛行場が三か所あった。


アメリカ軍がここを奪おうとした。




その理由は以下に述べる。


それまでは硫黄島から1130キロも離れたグアム・サイパン・テニアン島から

日本本土爆撃にB29を飛ばしていた。

片道2000キロを超える距離なので故障、被弾するとまず帰って来れない。

そして東京より東の軍事目標には届かない。


そして何より護衛の戦闘機すら付けれず

時折、日本軍戦闘機に手痛いしっぺ返しを食らっていた。





対する日本はここを奪われれば

日本本土を自由に爆撃させてしまう。


のちに起こった戦闘機による民間人への機銃掃射が行われる事になる。
















日本にとって重要な拠点なので一日でも長く守り抜かないとならない。

そしてそれは死ぬよりも苦しい戦いとなる事は必至。


皆が逃げる中、

栗林忠道中将が最高指揮官として着任した。


本来は兵団本部のある父島に居るべき兵団長なのだが

硫黄島住民1000名も父島に疎開させており

戦火に巻き込むのを恐れ

アメリカ軍は飛行場のあるここを強襲すると踏んで硫黄島に司令部を置いたのである。








カナダ駐在大使付きの経験でアメリカの物量を知っていた栗林中将は

アメリカ軍の強さを知っていた。



それでも一日でも長く抵抗するために

水際での殲滅を主張する海軍をはねのけ

のべ18キロにも及ぶ地下陣地を構築した。


60℃を超える地熱と硫黄ガスの噴き出す硫黄島

5分と作業できない場所も多く

陣地構築には大変な苦労があったそうである。





皆さんは兵隊同士が戦争したと思っているかもしれないが

大戦末期ゆえに正規軍は少なく

全国の一般から徴収された。 中には40歳を超える民間人も居たようである。



それでも連日の本土空襲などもあり士気は高かったそうである。





武人なら潔く戦って華々しく散る。 それに尽きるが、、。



しかし



この島を1日でも長く守る事は

本土に落ちる爆弾が減ることを意味する。

自分たちの愛する人を守るために

絶望的な戦いに臨んで行ったのである。



「敵10人殺すまでは死んではいかん」

「最後の一人となろうともゲリラになって敵を悩ませ。」





硫黄島の各地下陣地やトーチカに貼られた

「敢闘の誓」









島の形が変わるほどの戦艦の大口径砲による艦砲射撃

空からは爆弾やナパーム弾による雨あられの空襲

日本軍は全滅したと考えたアメリカ人は多かったようである。



そして艦船は1000隻以上

海を埋め尽くした。


後方支援を含むと兵員は16万人

アメリカ軍最強と歌われる第一海兵師団

上陸部隊6万が殺到した。


アメリカ軍司令官は5日もあれば落ちるだろう・と豪語した。










対する日本軍は2万余の人員しかいない。

しかも老兵含む、寄せ集め状態。

兵器の時代遅れなのも否めなかった。



しかしそんな状況でも

「自分たちが1日でも長く島を守ること、 それがすなわち本土に居る家族を守る事なのだ」


その思いが、、援軍どころか水も無く、補給も無い

絶望的戦いを支えていたのだ。


そしてそれを物語るのは

アメリカ軍最強を誇る第一海兵連隊は最初の1週間で戦死1000名以上

戦傷含め損害は60%に及びもはや部隊としての体をなさず

後送された。







対する日本軍守備隊も

重砲は初期の段階でことごとく破壊され

戦車に対抗する武器を失った。


ペリリューの戦いから導入された火炎放射戦車が一番やっかいだった。

火炎放射が130mも届いて

周囲の物を焼き尽くした。






それでも日本軍守備隊は地雷や爆弾を抱え戦車にその身諸共突入して果てた。





火炎放射の威力は恐ろしい。













アメリカ兵は日本軍の装備や死体から抜き取った金歯や




頭蓋骨までをも本国に送りお土産とした。







戦争は狂気を生む。。




硫黄島の写真でピュリッツァーを取った写真である。

アメリカ国防省にも現在に至るまでこの銅像が建っている。

現在まで語り継がれる代表的なアメリカ軍を象徴するシーンらしい。



しかし擂鉢山この旗を立てた兵士は全員が戦死している。

これは撮影用にやらせた写真である。


この写真に写っている兵の多くは

英雄扱いに悩みドラッグや酒に溺れ自殺している。






栗林中将以下守備隊は当初5日で落ちると言われた戦いを

1945年2月19日から3月26日まで守り抜き

水、食料、矢弾尽きて司令官自ら先頭で生き残った兵、400名と共に

敵陣に突撃して果てた。


20,933名の守備兵力のうち20,129戦死 

対するアメリカ軍は戦死戦傷者28686名を出して

日本軍の被害を上回ったのは初めてである。

戦い全体での戦死・戦傷率も50%近くに及び

現在までのアメリカ軍の歴史の中でも最高の被害を出した。







栗林忠道中将 

最後の訓示


いま日本は戦に敗れたりといえども、
日本国民が諸君の忠君愛国の精神に燃え、
諸君の勲功をたたえ、
諸君の霊に対し涙して黙祷を捧げる日が、
いつか来るであろう。
安んじて諸君は国に殉ずべし。」








今の我々は涙し黙祷を捧げているだろうか?







ある自衛官の手記で

滑走路の下に英霊の遺骨が今も埋まっていて着陸の度に踏みつけているようで

心苦しく辛いとあった。





日本でありながら東京都でありながら遺骨収集は進んでいない。

遺族すら年に一度しか立ち入れない。 しかも自費で




栗林閣下の最後におっしゃられた

「諸君の霊に対し涙して黙祷を捧げる日が、いつか来るであろう。」


その日が来るのを願ってやみません。





この動画は是非ご覧になって下さい。










硫黄島遺骨収集











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