2014年6月19日木曜日

鹿屋航空基地 資料館 ⑥



自衛隊の飛行艇










下川万兵衞の碑






昭和16年4月、零戦のテスト中、横須賀市夏島沖で殉職した海軍少佐下川万兵衛の碑が戦後、 

旧航空隊構内から堀り出された。


敗戦後、連合軍の命によってこういう碑はことごとく破壊・撤去された。

 日産自動車追浜工場の拡張工場中、地下一㍍の所から発見。














悲しすぎる神雷部隊


出撃を前にして、桜花を「使い難い槍」と評した野中五郎少佐は次のように言い残していったそうです。
「成功すればめっけ物だが、そう簡単にはいくまい。俺は陸攻機の腕っこきを連れてゆく。これで駄目なら、もう誰がやっても駄目だ」

「俺で駄目だったら、糞の役にも立たぬ特攻など、ぶっつぶしてくれ」

そしてまた、 「湊川だよ」とも言っていたそうです。

湊川とは、かつて楠木正成が勝てぬ戦いと知りながらもあえて戦って死んだとされる故事のことです。

出撃後は、全機無線機を積んでいるにもかかわらず、申し合わせたかのように、基地からの呼びかけに一切応答しなかったとか。「極限の特攻機 桜花」を著した内藤初穂氏は、
全滅必死の攻撃を命じた上層部にたいする無言の抗議ともうけとれる沈黙であった。 







そして嘘の大本営発表


今も昔も政府とメディアは都合のいい様に嘘をつく。
フクシマを見ればあきらかやなぁ。。












攻撃第二五四飛行隊


整備兵など裏方の努力にも支えられ、部隊が一丸となった成果は、
終戦の数日前にもかかわらず、40数機の「天山」を有し、夜間攻撃可能な練度まで部隊は鍛え上げられて、
当時の最精鋭部隊を成していた、という事実に結実します。






故郷の石。





遠く離れて戦ってると石すら恋しいんやろなぁ。





硫黄島唯一の大規模航空支援

第二御楯特別攻撃隊


彗星12機、天山8機、直掩零戦12機(直掩・ちょくえん=護衛のこと)からなり、
搭乗員60名であった


この第二御楯特別攻撃隊にも予科練の10代の若者たちが編入されていた。
 その若者たちがスロットルをフルにして突入し、あるいは撃墜されていく。
突入するとき無線で状況を伝える。それは香取基地だけでなく、
硫黄島の地下深くに作られた海軍無線室でも傍受できる。

「突撃体制をとれ」「指揮官機空母に突入」

無線が途絶えるということは敵艦に突入あるいは撃墜されることを意味する。
すべての無線が途絶えたのは午後5時52分であるという。

空母サラトガでは死亡123人、192が負傷という人的被害をだし、
損傷がはげしいためハワイまで修理のため離脱せざるをえなかった。
また空母ビスマルクシーは、乗員218人が船とともに沈んでいった。







茨城に




秋田まで









魚雷がある。













艦船搭載用の魚雷

45ノットとは時速80キロ

火薬295キロ







92式魚雷

昭和7年、電池魚雷としては異例の大型魚雷として開発、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦等に搭載された。また、一部は特攻兵器である「回天十型」の母体となった。
性能・要目
直径・・・・・・・53.3cm
長さ・・・・・・・・7.15m
雷速及び航走距離・・・30kt/5,000m
炸薬量・・・・・319kg










この大きいほうが人間魚雷のベースになったのか。


















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