三角兵舎を出たら正面に隼の後期型かなぁ。
引き上げられた零戦が見える。
ココは横やから正面に回る。
石原慎太郎氏は
子供の頃、米軍戦闘機に機銃掃射されたそうである。
そしてまさに撃たれると思った瞬間、
日本軍戦闘機隊がやってきて敵は一目散に退散。
その飛行機に描かれた日の丸が今も目に焼きついているそうです。
鳥濱トメさん
「ホタル帰る」
の話が有名かなぁ。
おれ、この蛍になって帰ってくるよ。■
昭和20年6月6日、鹿児島県は薩摩半島の中程、知覧町にある富屋食堂でのことである。
知覧で出撃を待つ特攻隊員たちはこの食堂に出入りし、なにくれと世話をやく女主人鳥浜トメを母親のように慕っていた。
明日は死に行く少年たちのために出来ることと言ったら、母親代わりになって優しく甘えさせて やるしかない、
そう思ったトメは私財をなげうって、特攻隊員たちに尽くしていた。
その前日、6月6日は宮川三郎軍曹の20歳の誕生日であった。
トメは心づくしの料理を作って、誕生日を祝うと同時に
明日に控えた出撃のはなむけとした。途中、空襲警報が鳴って、
みなで防空壕に入る。防空壕の中で、宮川は幽霊のまねをして、トメの娘礼子たちを怖がらせた。
防空壕を出ると、星のない暗い夜がそこにあった。街の灯り
も灯火管制のために消されている。食堂の横には小川が流れ、
藤棚とベンチがしつらえてある。漆黒の闇の中、小川の上を大 きな源氏蛍が飛び交っていた。
宮川の声がした。
小母ちゃん、おれ、心残りのことはなんにもないけれど、
死んだらまた小母ちゃんのところに帰ってきたい。そうだ、この蛍だ。
おれ、この蛍になって帰ってくるよ。
「ああ、帰っていらっしゃい」とトメは言った。そうよ。皆川さん、
蛍のように光輝いて帰ってくるのよ、と心の中で言った。
宮川は懐中電灯で自分の腕時計を照らして言った。
9時だ。じゃあ明日の晩の今頃に帰ってくることにするよ。
店の正面の引き戸を少し開けておいてくれよ。
「わかった。そうしておくよ。」とトメが答えた。
おれが帰ってきたら、みんなで「同期の桜」を歌ってくれよ。それじゃ、小母ちゃん。お元気で。
トメには別れの言葉がない。死にに行く人を送る言葉なんて
この世にあるのだろうか。宮川軍曹の後ろ姿は暗い夜道に消えていった。
そして次の日のその時間に本当に蛍が一つ
入って来て梁に止まった。
居合わせた戦友たちは皆で涙を流しながら同期の桜を歌った。
はい。
本当に優しい音がしたんやよ。
桜
二年ぶりです。
署名しました。
あ。
ネットで拾った画像で・・
中は3式戦闘機 飛燕
四式戦闘機 疾風
陸軍の基地だけに陸軍の戦闘機ばかり
赤バイに使われてたハーレー
しかし海軍の零戦もある。
特攻隊員の遺書が膨大な数が見れる。
昭和 20年3月下旬から7月中旬にかけ、沖縄で行われた陸軍航空特攻作戦において
戦死 された1,036名の方々の遺影・遺書・手紙などを展示している。
お母さんに宛てたものが多い。
中にはこういうのもある。
必殺
一度は是非、足を運んで頂きたいのです。
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