まだ新しいんで綺麗な建物。
綺麗に清掃されている。。。
下調べの段階では撮影禁止と書いてあったケド・・
聞いてみたらOKやった。
一礼してから中を拝見させて頂いた。
資料がびっしり。
構造の中心部には天秤梁工法・若狭地方独特の軸組み工法らしい。
佐久間勉 艇長
遭難の状況。
日本が潜水艇の建造を始めたのは日露戦の前で、事故の起こった明治43年当時の乗組員は、
潜水艦乗り組み自体が決死の覚悟であった。
出発地点は岩国
50時間経って引き上げられた。
事故にあって沈没した乗員の方々の最後の位置。
当時、開発途上の兵器であった潜水艇の事故は、欧州でも度々発生していた。
引き揚げられた艇のハッチを開くと、パニツク状態に陥った乘員達が昇降口に殺到し、
昇降口附近には多くの遺骸が群がっているのが通例であった。
場合によっては乱闘の跡すら見られる事もあった。海軍の関係者は艇内の状況、
即ち佐久間艇長ら乘員達が、海車軍人として恥じぬ最期を遂げたか否かを懸念したのである。
吉川中佐等がハッチを開くと・・・信じられぬ光景が目に入った。
潜水艇長・佐久間大尉は生けるがごとく司令塔に座していた。
舵手は舵輪を握ったまま、機関長である機関中尉は電動機の傍らに、空気手は空気壓搾管の前に。
乗員総員が、取り乱した形跡も無く、各々の部署に就いたままで永眠していた。
死の瞬間に至る迄、皆が職務を忠實に遂行していたのである。
一通りの検分を終へて艇外に出た吉川中佐は、一言「宜しい!」と絶叫するなり、その場に泣き崩れた。
吉川中佐等に続いて艇内を見た關係者は皆、粛然として言葉も無かった。http://blogs.yahoo.co.jp/kyuhzaemon/52979450.html
佐久間艇長と乗員たちの行動は、事故の衝撃を越えて、国民のみならず、世界中の感動を呼んだ。
そして海軍軍人の規範となり、潜水艦乗員のよき伝統となった。
この事故の直前、外国でも潜水艦事故があり、
引き揚げられた艇内で乗組員全員が昇降口付近に殺到し、折り重なって死亡しているのが発見された。
しかしそれは死を前にした人間にとっては止むを得ない行動と考えられた。
しかし日本の第六潜水艇の乗員は最後まで持ち場を離れず
その場で職務を全うし亡くなっている。
もうこの時点で(T^T)
佐久間艇長の遺品
第六潜水艇の部品
この通風筒から浸水した。
昔の教科書には載ってたんやなぁ。
戦後はGHQの命令と自国民による反日教育が激しいからなぁ。。
佐久間艇長は非常に温かい方やったんやなぁ。。。
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