2012年5月23日水曜日

知覧特攻平和会館へ


ずっと来たかった知覧についに立つ!
陸軍の特攻機地であった知覧


遠いから躊躇してたなぁ。。


国旗を仰ぎ見る。


場所はこんなトコロ。


中は撮影禁止なのが残念。
飛行機だけでもOKして欲しい。


ネットでひらった画像を・・
陸軍三式戦闘機・飛燕(ひえん)


海から引き上げられた零戦も置いてある。


万感胸にせまるものがある。


この写真の仔犬を抱く方は15歳で親元を離れ飛行学校へ
17歳で特攻、散華された。

周りの方々も17~18歳

この翌日に散華されたのだが・・
これが明日死ぬことが分かっている人の表情だろうか。



皆まだあどけなさが残る青年。



しかし遺書はとても達筆なんやなぁ。

母へ書き残したものがとても多い。

お母さん

お母さん

お母さん

・と続くものが多い。


祖国を守るという事

それはすなわち

愛する人を守る為、その一つしかない命を捧げられた。

それくらい戦争末期には日本本土が無差別爆撃で焦土と化し、

幼い子供や女性などの非戦闘員の命が多数失われた。

それ故に愛する人の頭上に爆弾を降らせない為にも

突っ込んで行ったのではないでしょうか。


しかし満タンの燃料と爆弾を抱いた旧式の特攻機は重く


本懐を遂げられたのは少数である。


レーダーを備えた空母から発進する敵艦載機や


空を覆いつくす対空砲火でその多くは海の藻屑となった。




アメリカ軍がマリアナ沖海戦から投入したVT信管

電波を出しながら金属を探知すると
命中しなくとも爆発する。


VT信管付き砲弾が炸裂したその瞬間。


数十倍の敵戦闘機群を突破した特攻機も
突入寸前で撃墜される機が相次いだ。



遺書の中にも

敵の空母は一隻で一分間に10万発もの対空砲火がある
突入は困難だがやり遂げると書いてあるものもあった。







それでも彼らは愛する者を守るため突入して行ったのです。




この方は下記のように書き残して出撃された。


願わくば愛する日本を偉大ならしめん事を国民の方々にお願いする

・・・

今の日本って彼らに顔向け出来ないのではないだろうか。

 


見送る知覧女学校の生徒達
特攻隊員の出撃前のお世話をされた。

軍の検閲のある中、
彼女らは多くの遺書を預かった。

それが今日残っている特攻隊員達の生の声だ。



特攻隊員の手記




 




神風特別攻撃隊はこのような背景で生まれた。



真実はどこに・・・


昭和19年
祖父はフィリピンにいました。
私と同じ23歳の祖父です。
フィリピンは日米の戦争に
巻き込まれていました。
連日、海にはアメリカ艦隊の
大群が押し寄せたそうです。

ミッドウェー海戦以降の日本軍は
大東亜戦争初期の勢いは無く、
豊富な物資と強大な工業力をもつ
米軍に徐々に追い詰められていきました。


そんな中昭和19年6月15日、
本土防衛の為の重要拠点であった
サイパン島が米軍に攻略された。
これによりB29による本土爆撃が可能となった。


フィリピンは日本と南方の石油をつなぐ
戦略的な要所であり、米軍が獲得に動いた。

フィリピンを守る第一航空艦隊の当時の戦力は
零戦約40機しかなかった。


これだけの戦力では通常の作戦では
どうしようもないということは明らかと思われた。


大西中佐は遂に
「零戦に250kg爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに、
確実な攻撃法はないと思うがどんなものだろう?」
と体当たり攻撃を部下達に提案した。


この時、全員が両手を上げてこの作戦に賛成した。


当時の戦況、そして搭乗員の士気というのは
そのようなものであった。




神風特別攻撃隊の編成




攻撃隊が結成された翌日
戦闘機の整備兵をやっていた祖父に
特別攻撃隊の友人が語った言葉です。

『もう戦争は続けるべきではない』
しかし、敵を追い落とすことができれば、
七分三分の講和ができるだろう。


アメリカを本土に迎えた場合、恐ろしい国である。
歴史に見るインディアンやハワイ民族のように
闘魂のある者は次々個々撃破され、
日本民族の再興の機会は永久に
失われてしまうだろう。


このために特攻を行ってでも
フィリピンを最後の戦場にしなければならない。
しかしこれは、九分九厘成功の見込みはない、では
何故見込みのないのにこのような強行をするのか


ここに信じてよいことがある。
いかなる形の講和になろうとも
日本民族が将に亡びんとする時に当たって
身をもってこれを防いだ若者たちがいた
という歴史の残る限り
五百年後、千年後の世に必ずや
日本民族は再興するであろう。

大空に雲は行き雲は流れり
すべての人よさらば 後を頼む
征って参ります

人は一度は死するもの
微笑んで往きます
出撃の日も そして永遠に



イッテマイリマス
ノチノニホンニエイコウアレ



私が高校生の時、祖父とフィリピンに行きました。
「神風特別攻撃隊」をはじめ戦没者の慰霊祭に
参加するためにです。

フィリピンの方々が日本国旗を振ってくれました。
東南アジアの国々から常に
戦争の責任を追及されていると思い込んでいた
私は驚きました。

神風特攻隊は戦後の日本では”戦争の悲劇”
の代名詞としてしか語られていません。
しかしフィリピンでは捉え方が
まったく違っていました。

式でフィリピンの方のスピーチです。
当時、白人は日本人を見下していました。
これに対して日本は、世界のあらゆる人種が
平等であるべきだとして戦争に突入していったのです。
神風特別攻撃隊は、そうした白人の横暴に
対する力による最後の”抵抗”だったといえましょう
そして、アジア内で唯一、抵抗してくれたのです。


かつて日本の統治を受けた台湾や韓国を見てください。
立派に経済的な繁栄を遂げているでしょう。
これは日本が統治下で施した”教育”の成果です。
ですが、アメリカの統治を受けたフィリピンでは、
自分たちでモノを作ることを学ばせてもらえなかった。
人々は鉛筆すら作ることができなかったのです。
アメリカが自分達の作ったものを
一方的にフィリピンに売りつけてきたからでした。

フィリピン人は日本で伝えられているような
”反日”などではなく、むしろ親日的です。
フィリピンの人々は戦争に対しては
日本人よりもリアリストです。
戦争があれば多少なりとも悲劇はあると、
現実的な考え方をしています。
ですからフィリピンの人々は
日本を責めようなどとは思っていません。



フィリピン国歌にも
「誉れ高い英雄達(神風)の生まれた国を崇めよ」
という一節があるくらいです。


欧米人のアジア観に多大な影響を与えた
神風特攻隊は、フィリピンの人々に敬われ
そしてその勇気が称賛されている。
日本人はこうした現実も
認識する必要があります。
今、自由に発言できること
ご飯を食べられること、感謝しましょう。
そして日本人が日本を好きになってほしい。

じいちゃんは小さい肩を震わせて
泣いていました。



私は一つ、真実を知ることが出来ました。





フィリピンでの戦没者慰霊祭では
国旗掲揚にフィリピン兵男女二名と日本兵の姿をした計三名で
日本の軍艦マーチで国旗を揚げる。

同時に日本の国旗も掲げられるという事を知っていますか?

日本のマスコミが報道しない事実です。

2 件のコメント:

  1. またひとつここで学ばせてもらいました。心から感謝いたします。
    それにしても、今の日本が残念でなりません。なんのために特攻隊の皆さんや戦争に行かれた方々が命をささげてくださったのか考えると本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになります。
    知覧は小学生の時、修学旅行で行きました。まだなにも知らない頃だからよくわかりませんでしたが、特攻隊の皆さんのお話はバスガイドさんがしてくださいました。
    悲しいけど特攻隊の皆さんの犠牲があるから今の日本があるのだと。

    お体に気をつけてこれからも頑張られてください。本当にありがとうございました。

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  2. オレンジさん・・

    そう言って頂けたら冥利に尽きます。
    ありがとう御座います。

    今の日本はアメリカの教育で骨抜きにされてしまって..。
    残念でなりません。

    日本民族が再興するのには彼らの言うようにまだまだ時間が掛かるんでしょうねぇ。

    自分はかれら英霊に日々感謝の誠を捧げたいと思います。

    今後も伝えたい事があるので頑張りますね。
    ありがとうございました。

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