沖縄の特別の日 6/23
今日、6月23日「慰霊の日」は沖縄県民にとって忘れることのできない特別な一日
一般住民を巻き込み、20万あまりの尊い命が奪われた沖縄戦は、
太平洋戦争で、唯一、日本国内の一般住民が地上戦を体験したという、
まさに地獄そのものでした。
沖縄戦における20万人を越す戦死者のうち、約半数に近い、
じつに9万4000人余りの戦死者が、兵隊以外の一般県民や子供です。
この沖縄戦で、沖縄防衛第三十二軍司令官牛島満中将と
同参謀長の長勇中将が糸満の摩文仁で自決した日が昭和20年6月23日の未明とされているので
この日を、日本軍の組織的戦闘が終結した節目としてとらえ、
沖縄慰霊の日が制定された。
地上にあるすべてが破壊され焼き払われた。
無差別爆撃は国際法違反であるが
勝てば官軍
誰も裁かれてはいない。
空からだけでなくアメリカ軍のロケット砲や砲弾で破壊しつくされた。
唯一今に残り伝える当時の建物
沖縄戦当時の首里城、城壁も建物も跡形もなく吹き飛んでいる。
この鉄の暴風と言われた米軍の銃砲火は
沖縄の面積で割ると1㎡あたり1000発以上だという。
沖縄の面積で割ると1㎡あたり1000発以上だという。
多くの住民を巻き添えにした。
突入する神風特別攻撃隊の特攻機に浴びせられる対空砲火
光って写ってるのは曳光弾という弾道を見る弾なので
実際はこの4倍
住民の隠れている洞窟を火炎放射で焼き払い
手榴弾や爆薬を放り込んだ。
火炎放射戦車で焼き払う。
火炎放射の恐ろしい所は直接火が届かなくとも中の酸素を奪い窒息死させてしまう。
多くの幼い命をも巻き込んだ。
先発のアメリカ海兵隊は女・子供でも射殺するので
これは後発のアメリカ陸軍によるものだろう。
助かった子供も親は無く栄養失調である。
終戦後に撮影された写真
女学生も女子挺身隊(看護婦など)として戦場に送られた。
沖縄師範学校女子部 | 沖縄陸軍病院 | ||||
県立第一高等女学校 | 沖縄陸軍病院 | ||||
県立第二高等女学校 | 24師団山第一野戦病院 | ||||
県立第三高等女学校 | 沖縄陸軍病院北部分室 | ||||
県立首里高等女学校 | 62師団野戦病院 | ||||
私立積徳高等女学校 | 24師団山第一野戦病院 | ||||
私立沖縄昭和女学校 | 62師団野戦病院 | ||||
県立宮古高等女学校 | 28師団第一・第四野戦病院 | ||||
県立八重山高等女学校 | 28師団第三野戦病院他 | ||||
県立八重山農学校女子 | 28師団野戦病院 |
手榴弾は自決用。
何も女・子供まで撃たなくても。。
男子は鉄血勤皇隊として14歳から銃砲火が飛び交う中、
爆薬の運搬、伝令など一番危険な任務に就かされた。
17歳未満の徴兵を14歳に・・。
内務省は、「事実上徴兵年齢の引き下げにあたるので、
法的には法律である兵役法の改正によってなされるべき」であるとして、
憲法違反の疑いもあることを指摘していた。
沖縄戦終結後の7月8日文部大臣が表彰してる矛盾。。
爆弾を背負って敵戦車に体当たり
島民も協力・・
よく鉄血勤皇隊の14歳から17歳以下が使われたようである。
武器も持たされず竹槍で総攻撃に参加した者も多かったようである。
890名もの若い命が消えた。
これが戦争だ
戦後70年経っても沖縄の野山には遺骨が累々と放置されている現状
民間団体の方が細々と遺骨収集されています。
アメリカという国は一兵の搜索にも多くの予算を割くが・・
惨めな敗戦国の現状。
県外出身、、
日本軍と分けられては居るが軍人は少なく
徴兵で連れてこられた普通の民間人がほとんど。
住民の4人に一人が殺された沖縄戦
この世のありったけの地獄を集めた・と言われた。
命どぅ宝
沖縄の方言で命こそ宝・という意味です。
また繰り返すんでしょうな...。。
戦争はいつの時代も悲惨である。
鎮魂
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