今日は映画にもなった悲しい物語を・・
日本軍によるハワイ真珠湾攻撃に伴い、
アメリカ合衆国は大日本帝国と戦争状態となった。
1942年2月以降に、アメリカ西海岸に居住していた日系人と日本人移民約12万人は、
ほとんどの財産を没収された上で全米に散らばる強制収容所に強制収容された。
その強制収容所内において志願兵の募集が始められた。
これに応じた日系二世による日系人部隊が作られた。
しかし差別ゆえ彼らを受け入れる部隊は当初無かった。
上を持たないアメリカ軍史上初めての部隊であった。
その後、
興味を抱いた連隊に編入され、ヨーロッパ戦線でドイツ軍と戦った。
勇敢である彼らは多大な犠牲を出し、
ローマ解放の一番乗りを目前としながらも
日系人であるがゆえ
軍上層部の意向によりローマを目前にして停止命令が出された。
後続の白人部隊が1944年7月4日に入城してローマ解放の栄誉を手にした。
結局、部隊はローマに入ることを許可されず、ローマを迂回しての北方への進撃を命じられた。
1944年10月24日、第34師団141連隊第1大隊がドイツ軍に包囲されるという事件が起こった。
彼らは救出困難とされ、「失われた大隊」 (Lost battalion) と呼ばれ始めていた。
10月25日には、第442連隊戦闘団にルーズベルト大統領自身からの救出命令が下り、部隊は出動した。
休養が十分でないままの第442連隊戦闘団は、
ボージュの森で待ち受けていたドイツ軍と激しい戦闘を繰り広げることとなる。
10月30日、ついに失われた大隊を救出することに成功した。
しかし、
失われた大隊の211名を救出するために、第442連隊戦闘団の約800名が死傷している。
彼らの親兄弟は強制収容所暮らしである。
自分達の兄弟がアメリカで生きて行く為に
日本人でありながらアメリカに忠誠を誓い
アメリカの戦争を勇敢に戦い、その身を挺して
礎を築いたのである。
欧州戦線での戦いを終え、
第442連隊はその活動期間の短さと規模の大きさに反して
アメリカ陸軍史上でもっとも多くの勲章を受けた部隊となり
歴史に名を残した。
特にその負傷者の多さから、名誉戦傷戦闘団(Purple Heart Battalion)とまで呼ばれた。
戦闘団は総計で18,000近くの勲章や賞を受けており、その中には以下のようなものも含まれている。
議会名誉黄金勲章 1(アメリカ合衆国で民間人に与えられる最高位の勲章。
2010年10月5日、オバマ大統領により第100歩兵大隊と第442連隊戦闘団の功績に対し、授与された。)
名誉勲章(議会栄誉章) 21(アメリカ軍における最高の栄誉)
セラヴェッツァ近郊での戦いで数々の殊勲をあげ、
1945年4月5日に友軍をまもるために、投げ込まれた手榴弾の上に自らの体を投げ出して戦死した
サダオ・ムネモリ上等兵が受章。
第2次世界大戦における名誉勲章の授与数は464、
そのうち1998年に授与されたジョー・M・ニシモト上等兵のものと、
殊勲十字章から格上げされた19個をあわせた21の名誉勲章が442連隊に与えられている)
陸軍殊勲十字章 52(このうちの20に関しては、2000年6月に再調査の上で名誉勲章に格上げされた)
銀星章 560(複数回獲得を表す樫葉の追加28)
勲功章 22 陸軍軍人章 15 青銅星章 4000(+樫葉追加が1200)
パープルハート章 9486 (モンテカッシーノで続出した凍傷患者に対する授与が過半)
大統領部隊感状 7枚
(トルーマン大統領が自らの手で連隊旗に、第442連隊としては7枚目となる「大統領部隊感状」を括り付けた。
これは合衆国陸軍では初めての出来事。7枚という数字は合衆国陸軍の最多受賞部隊でもある)
格上げが多いのは、当時日本と戦争中のアメリカで日系人部隊を評価することにためらいがあったが、
戦後そのしがらみがなくなり再評価されたためと、1960年代に公民権法が施行され、
それまでの人種差別政策が是正されたためである。
鎮魂
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