展示されている零戦52型丙が引き上げられた時の様子。
こっちは漁網に絡まって引き上げられた21型かなぁ?
平成四年三月24日 垂水市まさかり海岸 二一型、
同年十月15日 加世田市吹上浜
五二型丙が相次いで引き上げられ、二機のパーツを利用して、一機の五二型が修復された。
動画も上映されてた。
一人しか居なかったんでゆっくり見れた。
ざわついた知覧より
こっちがいい。
海軍五省
908名もの尊い命が。
己を殺し他を助けた。
太平洋戦争末期の昭和20年4月29日の早朝、米軍の爆撃機B29が、
旧日本海軍の戦闘機『電電』に撃墜され輝北町上百引の畑に墜落しました。
機体は焼け焦げ、11人の搭乗員は全員死亡。
この時、駆け付けた住民が竹やりで遺体を突こうとしたそうですが、
「死んだ者に敵味方の区別はない」という声があがり、住民は手厚く葬り、
十字架の墓標を立て葬ったそうです。
墜落現場近くの国道504号沿いには、「B29墜落地点の碑」と記した碑が建立され、
61年前の惨状を伝えています。
実は日本軍パイロットの飛行服にも大きな日の丸が付いてる。
それは墜落して米兵と間違えられて殺された事件があった為。
当時は無差別爆撃が激しく家を焼かれ肉親を殺され憎悪がつのって居た時代
平時では考えられない事が起こる。
その中での素晴らしい話に感動した。
二階から
入口正面にある巨大なのは桜島だったんかぁ。
米軍機による無差別機銃掃射。
全国には本当に痛ましい事件があったんやよ。
外には自衛隊の飛行機
布が大きくなると二枚につぐ。
ちょっとピカピカすぎるけど
小牧にあるのとは大違いにいい雰囲気を保っている。
戦艦大和と共に沖縄へ海上特攻。
それでも沖縄の人は悪く言うもんなぁ。。
殺した側の米軍を擁護するガイド達
海軍司令部豪には絶対、修学旅行生は連れて行かない。
沖縄の新聞にも掲載しない。
なぜなら
沖縄県民斯く戦えり。県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを。
そんな事言われたら
自虐史の邪魔やもんな。
一緒に行った駆逐艦も多数沈んだけど取り上げられる事は無い。
無情。。
1945年3月26日に米軍が沖縄に上陸。 28日、軍上層部は昭和天皇に神風の特攻作戦を伝えると、天皇は「海軍にもう艦はないのか、海上部隊はないのか」と質問。この一言を受け、 すぐさま大和を旗艦とした連合艦隊第二艦隊に沖縄出撃の命が下る。それは片道分の燃料で沖縄の海岸に乗り上げ、水上砲台となって戦えという「水上特攻」の指令だった。 軍が考えていた元々の作戦では、大和を使って米艦隊を本土の側まで誘い出し、空と海から叩くというものだった。しかし天皇の言葉で作戦は激変、「畏レ多キ御言葉ヲ拝シ恐懼(キョウク)ニ堪ヘズ…」と緊急電報で特攻が告げられた。 一機も航空機の支援がない無謀な作戦であり艦隊司令長官は抗議したが、参謀長から「一億総 特攻の規範となるよう、立派に死んでもらいたい」と説得され、「我々は死に場所を与えられた」と 言葉を呑み込んだ。慌ただしく出航準備が整えられ、4月6日夕刻、大和は出撃する。 「死ニ方用意」。約3千名の乗組員に作戦内容が特攻と知らされたのは出航の後。 動揺し、特攻の是非を巡って衝突する兵士たちに対し、“これは無駄死にではない”と語る臼淵大尉の悲壮な言葉(実話)は、この映画の核となっている-- 「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。 日本は進歩ということを軽んじ過ぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた。敗れて目覚める。それ以外にどうして日本が救われるか。今目覚めずしていつ救われるか。俺たちはその先導になるのだ。 日本の新生に先駆けて散る、まさに本望じゃないか。」 大和は半日で米潜水艦に捕捉され、わずか1日後、出撃の翌日に鹿児島沖で386機もの米艦載機による猛爆を受け、沖縄を見ることもなく轟沈した(生還者は1割以下、269名)。 |
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