2014年5月28日水曜日

長崎原爆資料館 ⑦



どうやって原爆投下の町を選定したのか。






最初はラバウルを考えてたんやね。




あの当時も今もか知らんけど、白人以外は人間とは思われていなかった。

そもそも日本以外はアジア人は奴隷とされていた時代。

日本が欧米列強と戦ったこの戦争を東洋のさまざまな国や黒人が喜んだらしい。





7月に初実験して1ヶ月経たずに使うとは
急いでたんやね。





京都は文化財があるから残したというのは嘘で

原爆の効果を知るためにあえて残してあったのだが・・


20年ほど前からしきりに唱えられられるようになった「スチムソン恩人説」である。

京都を外したのは別の意図があった。





事前の通告無しに。


この頃、

日本の情報部ではテニアン島から交信されるある特殊な記号をつかんでいた。

これが原爆を搭載する機だという事が

広島に落とされて分かった。




そして次の原爆搭載機が来る情報を無線傍受で掴んでいたのだが・・

情報を上層部に上げるも何の返答も無かった。





そして運命の8月9日

来ると分かっていながら逃す。


当時、この地区を守る航空隊の零戦パイロットは

戦後70年経ってこれを知り

たとえ体当たりしても防ぐのにと涙を流し悔しがったのが印象的であった。


そして誰が止めたのか

分からぬまま歴史の闇に消えた。


なぜ原爆を落としたのかは

ソ連が攻めてくるんで急いだのとデータが欲しかったからに他ならない。


原爆を落とされずとも

この頃の日本にはもう戦う力は残されて無かった。







様は実験台にされたんですね。








楕円の土地は分かるが・・後はなんにも無くなった。





日本に投降を求めるビラ。

こういうのは戦争中は混乱させる為、どこでもやる常套手段。

日本軍もよく使った。











全国的にまかれていた。





アメリカにとっては黄色いサルを使った人体実験やね。




戦後速攻で乗り込んで来て

拠点を作り

治療にも当たらず、データを取ることだけに専念した。

その為に日本の医者の手も煩わせ

患者の治療が遅れた。

犠牲者の遺体から無断で内臓を抜き取り、綿をつめて遺族に返した。

遺族は目玉すら無いからっぽの軽い遺体に涙したそうである。


そうして得られたデータは治療に役立てる事も無く本国に持ち帰り

今なお公開されてはいない。



分かっていれば救われた命や貰えた補償も沢山あるんやよ。。







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