こっちは現代版コーナーかなぁ。
あ。
大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん)は、欧米諸国(特に大英帝国・アメリカ合衆国)
の植民地支配から東アジア・東南アジアを解放し、
日本を盟主とする共存共栄の新たな国際秩序を建設しようという、
大東亜戦争における日本の構想である。
みんな知ってる事ばかりなんで飛ばす。
今はソ連が解体してからあらゆる所に核が流出している。
日本には原発が54基もあるでしょ。。
実は日本のプルトニウム保有量で計算すると核ミサイル4000発分をすでに持っている。
世界第三位の核保有国となる。
最新の核ミサイルなら8000発分に相当する。
世界はおろか同盟国であるアメリカですら日本を危惧するほどの量を所有している。
そして日本は人工衛星を打ち上げる国産ロケット技術も持っている。
三ヶ月もあればアメリカをもしのぐ核武装が出来るという訳。
人間は愚かやねぇ。
ロシアのウラジオストックには原子力潜水艦がそのまま打ち捨てられてる。
核の保管庫はじゃがいもの方が厳重管理されてると言われるほどなんやて。
核実験の地球儀かぁ。
1945年から約半世紀の間に2379回(その内大気圏内は502回)の核実験が各国で行われた
宇宙から見た核実験。
人類は愚かだ。。
沖縄の海に落としたのも見つかっていない。
世界のおバカさんランキング
アメリカはつねに1位を争う。
日本は核実験は無しやけど・・フクシマを人災で爆発させたんやから・・
これくらい付けとけばいいと思うよ。
いつ核戦争が起こっても不思議でない。
証明する事が難しいんやね。
泣き寝入りにされてる。
なんせアメリカと日本はこんな国やからなぁ。
生き地獄かぁ。
これは近所の中学やわ。
おぶってる弟が死んで焼き場につれてきた。
無言で立ちつくす少年を最初大人たちは気付かなかったが、やがて・・
撮影したのは米兵のジョー・オダネル
そのジョー・オダネルと息子タイグ・オダネルの物語をご紹介します。
「解かれた封印~米軍カメラマンが見たNGASAKI」(NHKスペシャル2008年8月7日放映)から。
日本人への憎しみ
ジョーは、真珠湾への復讐心に燃えて海兵に入りました。
目的は、にっくき敵、日本人を殺すため。
そして広島に原爆が落とされます。
そのときのジョーの思いは、
『10万人くらい死んだらしい。とにかくこれで戦争は終わりだ』
感慨もなにもないものでした。
しかし、撮影班として現地入りしたジョーは、それが戦争の終わりではなく
『生き残った日本人にとって苦しみの始まりだった』ことを目撃していくのです。
被災現場の衝撃
米兵達が「グラウンド・ゼロ」と呼ぶ爆心地。
『自分が地球に立っているとは思えないほどの破壊力だった』
彼は、許可なく日本人を撮ってはならないという軍規に反して密かに撮影を続けます。そして、救護所で見た現実。
『眉も鼻も耳もなかった。顔と言える原型はなく、肉も塊だった』
肉塊と化した彼はジョーに訴えます。
『あなたは敵でしょう。私を殺してください』
ジョーは逃げるように彼から離れました。
『この世のものとは思えないものを見た』衝撃は、ジョーの思いを変えていきました。
『傷ついた人々を撮影している内に日本人に持っていた憎しみが消えていった。憎しみから哀れみに変わった』
『なぜ人間が同じ人間にこんな恐ろしいことをしてしまったのか』
組織への失望
帰国したジョーの心は苦しみます。
『被爆者達の体をうごめくうじ、助けを求める声、鼻をつく異臭…。私は長崎で見た光景を思い出すまいとした。しかしその光景は頭から離れず、私をさいなみ続けた』
『眠ろうとして眠れない。悪夢が終わらないのだ。写真を見たくなかった。見ると長崎の悪夢が蘇ってしまう』―彼は、「絶対に開けるな」と家族に言い渡し、屋根裏に写真が入ったトランクを封印しました。
大統領付の写真家としてホワイトハウスで勤務し始めたジョーが最初に出逢った大統領が、原爆投下を正当化するトルーマン大統領でした。
ジョーはある日大統領に訊きます。後悔はないか?
『彼は動揺し、顔を真っ赤にしてこういった。
「当然それはある。しかし原爆投下は私のアイディアではない。私は前の大統領から単に引き継いだだけだ」』
このような無責任な決断で、数十万人(被爆後5年間の死者も含めると34万人)もの魂が焼けただれたのだ。
ジョー自身も、背骨の痛みと変形、そして皮膚癌が広がりはじめる。
爆心地に向かう兵隊にも放射能の真実を告げず、使い捨てにする米軍への失望。彼は原爆被害を求めて提訴しますが、米国政府は却下します。
人間としての決意
ある日、ジョーは反核運動のシンボルを見ます。
その彫像に貼られた被爆写真を見て、彼の心は決意しました。
『真実を伝えなければならない』
67歳の時でした。そして、43年間も隠し続けたトランクを開け、封印していた30枚の写真を公表しはじめました。
各地で写真展を開催するも、退役軍人の反対にあい、地元新聞に批判の投書が掲載され、家族が嫌がらせを受けました。写真の出版も持ちかけましたが、出版社すべてに断られました。そして…ついに妻が離婚して去ります。
けれど、ジョーは活動をやめませんでした。
ジョーを突き動かした思い。それは
『あの小さな子供たちが何かをしただろうか。戦争に勝つために本当に彼らの母親を殺す必要があっただろうか』
そして、断じます。
『1945年 あの原爆は やはり間違っていた。それは100年たっても間違いであり続ける。絶対に間違っている。絶対に』
その決意から、ジョーは70歳を過ぎて、体験を語る活動をはじめました。
そして、焼き場に立つ少年を捜し続けました。
決意を受け継いだ息子
ジョーは孤立無援で闘い続けました。
『嫌がらせの手紙や投稿がどんどん集まってくる。
「お前は裏切り者だ」「アメリカが嫌なら日本に行け」と。
ある時娘が教えてくれた 。
「お父さんの活動に味方する投稿が一つだけあるよ』と。
その投稿は次のように訴えていました。
『「オダネルを批判する人たちに言いたい。原爆とは何だったのか。図書館に行って歴史を勉強してから批判しろ」
名前を見るとそれは私の息子だった。
息子が私が日本にいたときと同じ23歳の頃だった』
その息子タイグは次のように言います。
『50年たって僕がお父さんくらいになったら、僕が日本に行ってお父さんのやろうとしたことを引き継ぐよ。平和のために命をかけて写真を伝えていくよ』
タイグはネットで写真を公開しはじめます。
批判がきます。8ヶ月後、母エレンからもメッセージが届きました。
『私にはまだジョーがなぜトランクを開け、母国を告発したのかわからないままです。ただこれだけは確かです。彼の写真が多くの人に影響を与えていること。そしてその写真を引き継いだあなたをジョーが誇りに思っていることです』
そして、タイグは父の写真に写っていた背中の焼けただれた少年に逢いました。年をとられたその方は、現在もまだ手術を続けていらっしゃいました。
その後、タイグは子供たちの遊ぶ姿を写真に撮ります。
『いつか長崎で笑顔の子供たちを撮りたい』
―父のその思いを叶えるために。
広がる平和への意志
原爆を目撃してしまったアメリカン人のカメラマン
ジョー・オダネルは言います。
『たとえ小さな石であっても波紋は広がっていく』
『誰かが続いてくれれば波紋はさらに広がっていく』
『そしていつか誰もが平和を実感できる日が来ると信じる』
米兵達が「グラウンド・ゼロ」と呼ぶ爆心地。
『自分が地球に立っているとは思えないほどの破壊力だった』
彼は、許可なく日本人を撮ってはならないという軍規に反して密かに撮影を続けます。そして、救護所で見た現実。
『眉も鼻も耳もなかった。顔と言える原型はなく、肉も塊だった』
肉塊と化した彼はジョーに訴えます。
『あなたは敵でしょう。私を殺してください』
ジョーは逃げるように彼から離れました。
『この世のものとは思えないものを見た』衝撃は、ジョーの思いを変えていきました。
『傷ついた人々を撮影している内に日本人に持っていた憎しみが消えていった。憎しみから哀れみに変わった』
『なぜ人間が同じ人間にこんな恐ろしいことをしてしまったのか』
組織への失望
帰国したジョーの心は苦しみます。
『被爆者達の体をうごめくうじ、助けを求める声、鼻をつく異臭…。私は長崎で見た光景を思い出すまいとした。しかしその光景は頭から離れず、私をさいなみ続けた』
『眠ろうとして眠れない。悪夢が終わらないのだ。写真を見たくなかった。見ると長崎の悪夢が蘇ってしまう』―彼は、「絶対に開けるな」と家族に言い渡し、屋根裏に写真が入ったトランクを封印しました。
大統領付の写真家としてホワイトハウスで勤務し始めたジョーが最初に出逢った大統領が、原爆投下を正当化するトルーマン大統領でした。
ジョーはある日大統領に訊きます。後悔はないか?
『彼は動揺し、顔を真っ赤にしてこういった。
「当然それはある。しかし原爆投下は私のアイディアではない。私は前の大統領から単に引き継いだだけだ」』
このような無責任な決断で、数十万人(被爆後5年間の死者も含めると34万人)もの魂が焼けただれたのだ。
ジョー自身も、背骨の痛みと変形、そして皮膚癌が広がりはじめる。
爆心地に向かう兵隊にも放射能の真実を告げず、使い捨てにする米軍への失望。彼は原爆被害を求めて提訴しますが、米国政府は却下します。
人間としての決意
ある日、ジョーは反核運動のシンボルを見ます。
その彫像に貼られた被爆写真を見て、彼の心は決意しました。
『真実を伝えなければならない』
67歳の時でした。そして、43年間も隠し続けたトランクを開け、封印していた30枚の写真を公表しはじめました。
各地で写真展を開催するも、退役軍人の反対にあい、地元新聞に批判の投書が掲載され、家族が嫌がらせを受けました。写真の出版も持ちかけましたが、出版社すべてに断られました。そして…ついに妻が離婚して去ります。
けれど、ジョーは活動をやめませんでした。
ジョーを突き動かした思い。それは
『あの小さな子供たちが何かをしただろうか。戦争に勝つために本当に彼らの母親を殺す必要があっただろうか』
そして、断じます。
『1945年 あの原爆は やはり間違っていた。それは100年たっても間違いであり続ける。絶対に間違っている。絶対に』
その決意から、ジョーは70歳を過ぎて、体験を語る活動をはじめました。
そして、焼き場に立つ少年を捜し続けました。
決意を受け継いだ息子
ジョーは孤立無援で闘い続けました。
『嫌がらせの手紙や投稿がどんどん集まってくる。
「お前は裏切り者だ」「アメリカが嫌なら日本に行け」と。
ある時娘が教えてくれた 。
「お父さんの活動に味方する投稿が一つだけあるよ』と。
その投稿は次のように訴えていました。
『「オダネルを批判する人たちに言いたい。原爆とは何だったのか。図書館に行って歴史を勉強してから批判しろ」
名前を見るとそれは私の息子だった。
息子が私が日本にいたときと同じ23歳の頃だった』
その息子タイグは次のように言います。
『50年たって僕がお父さんくらいになったら、僕が日本に行ってお父さんのやろうとしたことを引き継ぐよ。平和のために命をかけて写真を伝えていくよ』
タイグはネットで写真を公開しはじめます。
批判がきます。8ヶ月後、母エレンからもメッセージが届きました。
『私にはまだジョーがなぜトランクを開け、母国を告発したのかわからないままです。ただこれだけは確かです。彼の写真が多くの人に影響を与えていること。そしてその写真を引き継いだあなたをジョーが誇りに思っていることです』
そして、タイグは父の写真に写っていた背中の焼けただれた少年に逢いました。年をとられたその方は、現在もまだ手術を続けていらっしゃいました。
その後、タイグは子供たちの遊ぶ姿を写真に撮ります。
『いつか長崎で笑顔の子供たちを撮りたい』
―父のその思いを叶えるために。
広がる平和への意志
原爆を目撃してしまったアメリカン人のカメラマン
ジョー・オダネルは言います。
『たとえ小さな石であっても波紋は広がっていく』
『誰かが続いてくれれば波紋はさらに広がっていく』
『そしていつか誰もが平和を実感できる日が来ると信じる』
ジョー・オダネルの魂に一本の背骨を通したのは、あの「焼き場に立つ少年」だったと思います。
理不尽のすべてをのみこんで
涙も流さず
ただ唇を血がにじむくらいに噛みしめて
立ちつくしていた
あの少年―
幼子が焼けるのを見届け
そして
くるりときびすを返して去っていったあの少年
すべて大人がやったこと
地球の子供たちには、何の罪もない
「戦争を終わらせるために原爆は必要だった」「罪悪感はない」「謝る必要はない」…どんな理屈も、どんな言い訳も強がりも、この少年の無言の主張の前では意味をなしません。
ただ、涙があふれるだけです。
ただ、私たち大人が馬鹿でごめんなさい、と頭を下げるだけです。
---------------------------------------------------------
社会(体制)の中で生きようとしたジョー。
しかし、彼の中で「焼き場に立つ少年」に植え付けられた種が芽吹き育っていました。そして、43年の時を経て彼の中で大木に育ったのです。
すべてを捨て、孤独になる覚悟がなければ、真実を公開することはできないでしょう。その強さのモデルになったのは、あの「焼き場に立つ少年」だったのだと思います。
彼がトランクを開けたとき、感情を持つことを“禁止”されていた心亡き写真家から、「人間」に戻ったのです。トランクを開けるとは、閉ざされていた「心を開く」ことに他なりませんでした。
そして、孤立無援の父を支えたのは、息子のタイグでした。
ジョー・オダネルに背骨を与えて心を持つ人間にしたのは「焼き場に立つ少年」。
そのジョー・オダネルの人間としての闘いを支えたのは息子タイグ。
ジョーは二人の少年に支えられ、受け継がれて85歳でこの世を去りました。
亡くなったのは、折しも8月9日。
理不尽のすべてをのみこんで
涙も流さず
ただ唇を血がにじむくらいに噛みしめて
立ちつくしていた
あの少年―
幼子が焼けるのを見届け
そして
くるりときびすを返して去っていったあの少年
すべて大人がやったこと
地球の子供たちには、何の罪もない
「戦争を終わらせるために原爆は必要だった」「罪悪感はない」「謝る必要はない」…どんな理屈も、どんな言い訳も強がりも、この少年の無言の主張の前では意味をなしません。
ただ、涙があふれるだけです。
ただ、私たち大人が馬鹿でごめんなさい、と頭を下げるだけです。
---------------------------------------------------------
社会(体制)の中で生きようとしたジョー。
しかし、彼の中で「焼き場に立つ少年」に植え付けられた種が芽吹き育っていました。そして、43年の時を経て彼の中で大木に育ったのです。
すべてを捨て、孤独になる覚悟がなければ、真実を公開することはできないでしょう。その強さのモデルになったのは、あの「焼き場に立つ少年」だったのだと思います。
彼がトランクを開けたとき、感情を持つことを“禁止”されていた心亡き写真家から、「人間」に戻ったのです。トランクを開けるとは、閉ざされていた「心を開く」ことに他なりませんでした。
そして、孤立無援の父を支えたのは、息子のタイグでした。
ジョー・オダネルに背骨を与えて心を持つ人間にしたのは「焼き場に立つ少年」。
そのジョー・オダネルの人間としての闘いを支えたのは息子タイグ。
ジョーは二人の少年に支えられ、受け継がれて85歳でこの世を去りました。
亡くなったのは、折しも8月9日。
引用
動画
吉永小百合さんは反原発にも声を上げられている。
17300発か。
いつか使われるやろね。
ジョン・F・ケネディが1961年に国連で行った演説
銭と権力欲にまみれた極一握りの人間によって動かされてる世界。
愚民はバラエティーでも見て何も考えず選挙には来んなという事なんやけどね。
その逆をやれば世界は変わる。
学生が沢山出て署名活動している。
この景色は被爆地ならでは。
広島も同じやったよ。
もちろん署名した。
微力だけど無力じゃない。
何もしないのは同罪やね。
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