群れない 慣れない 頼らない 93歳日本画家-堀文子
九十三歳で新作の展覧会
-11月10日から銀座の画廊で、新作の展覧会が始まりましたね。
大変大勢の方が来ておられました。
ありがとうございます。でも私はあんまり絵の話はしたくないんです。
絵描きは、絵が芸をしているのですから。
何か言うと弁解になりますので、展覧会場にもほとんど行かないんです。
私はただその時その時に夢中になっているだけで、
夢中になるととことんまでやり続ける職人です。
でも普段は絵を描くのが怖くて。白い紙の前でいまでも震えています。
もともと私はこの世の不思議に驚いた子供で、科学者になりたかったんです。
ですから、いまだにできあがったものより未知の世界を探る科学者のものの考え方に共感します
理系の方々から受ける影響が多いのです。
美も真理も元は同じだと思います。この世の不思議の追究から始まったのですから。
人を相手にしたり儲けを考えたりしない働きでゴールもなければ、出発点もありません。
-終わりのない道ということですか。
そうなんです。科学もいまこれで完璧なんてことはないわけで絶えず変化しています。
そういうことを私は尊敬します。
私たちの細胞だって、去年とは変わっています。
環境も、私自身も変わる。
ですから、私は同じことを繰り返すことができないのです。
―略―
-皆さんも驚いていたご様子でした。
私もたくさん声を掛けられましたが、会場に本人がいると皆さん、褒めてくださいます。
貶(けな)す方はおりません。危険なことです。
ただ、心ある方がどう思って見てくださったかは伺いたい。
そしていまの自分を切り崩してくださるようなお言葉をいただけたらと思います。
-とても謙虚な姿勢でおられるのですね。
いえ、常に自信がないんです。不安で。白い紙を見て、
絵を描く時のあの恐怖は最初の頃と同じです。
-絵を描くのが、恐怖なんですか。
恐怖の連続です。
そして絶えず、ああ、ダメだ、無能だと思う。
その無念が私の道標で、私に絵を続けさせている原動力です。
満足をしたことはない。
ですから、出品のために絵が運ばれていったら、それが私の葬式で、
それを送った後は二度と振り返りません。
-常に前進という姿勢ですね。
そもそも私のような人間がどうしてできたかと考えると、
4歳の時に体験した関東大震災の影響が原点になったと思います。
―略―
ただ、下町から火の手が回り、私の家も危ないという知らせがきた。
家の方向に巻き上がった真っ黒な煙を見ているうちに、私、失神状態になっていたと思います。
その時、「あるものは滅びる」って声が電流のように全身を貫いた。
幼い心が悟りを受けたのです。
そういうことがあって、私は子供らしい子供にならず、物欲のない、
自分の足で立って生きる姿勢が身についたんじやないでしょうか。
-その体験がベースになっているわけですね。
子供だから理屈は分からないが、この世の無常の姿を、
物心のついたばかりの頃に見たわけです。「乱」を見てしまった。
その時、庭に泰山木の大木があったんですが、
カマキリが静かにこっちを見ながらその幹を上っていくのを見ました。
絶え間なく余震が続いていました。
大きなカマキリでしたから、産卵前の雌だと思います。
人間がこんなにもうろたえている時に、カマキリは静かに動いていました。
この時、文明に頼っている人間が無能だということを知りました。
停電はする、水は出なくなり、汽車は止まる。
何もかも動かなくなった時、他の生物は生きて動いている。
私か生命の力を意識するようになったのも、その時の経験が大きかったと思います。
-画家になる道を選ばれたのはどうしてですか。
私は絵が特別好きでぱなかったが、とにかく何かになりたかった。
それで女学校1年の頃、自分の才能を確かめるため、
ノートに縦軸と横軸を書いて、そこに努力度や勉強時間、学校の成績などを書き込みました。
すると、どんな方向からやっても「絵」が出てきました。
特別努力をしていないのに、これはひょっとしたら私に才能があるのかもしれない。
努力すれば人より少しはマシになるかなと思いました。
-自己分析をして、進む道を決められたのですね。
はい。それから、当時は男女差別がひどく、女は結婚して子供を産むことが一番大きな仕事で、
自立を考えない時代でした。私の家も御多分に洩れず、自立などを許しません。
ですから私が女子美術専門学校(現女子美術大学)に行きたいと言うと、
親が猛然と反対して「絵描きの暮らしを知らない者が入れる世界ではない」と言うのです。
でも私はハンストまがいのことまでして自分の意志を押し通し、なんとか親を説得しました。
ところがいよいよ女子美に願書を出す日に、あの二・二六事件が起きたんです。
私はその時に、何か重大な歴史的事件らしいことを直感し、これは立ち会わなければと思った。
―略―
このまま、私は一人で生きていかなきゃならないかもしれない。
死を覚悟しました。
軍は「明日の朝に戦闘を開始するから、家中の畳を積み上げ、
その陰に身を隠すように」と言ってくる。
私は絵の道具と飼っていた小鳥と猫を乳母車に積み、これからは一人で生きていくんだ。
私は生き抜くぞ、諦めないぞと自分白身に言い聞かせました。
-願書を出す日と重なった。何か運命的ですね。
イメージ 4私の人生の出発点には、いつも乱が続くのです。
そういうものに立ち会う運命なんでしょう。
平和な時には気が緩んでいますが乱になると、私は生きようとする元気が湧いてくるようです。
いつも不安の中に身を投げていなければダメ
-堀さんの絵が世間で評価され始めたのはいつ頃からですか。
評価されたかは知りませんが、女子美を出てからまもなく、
出品した絵が賞を受けて騒がれた時期もありました。
その時に、自分が若い女だから騒ぐので、こんな言葉に乗っていたら大変だ。
ある時期を過ぎたら誰も振り向かなくなるという自覚がありました。
大抵は若い時ちやほやされて、ダメにされるんです。
-あくまで冷静に受け止めておられたのですね。
自分を堕落させるのもよくするのも自分なんだ、と考えていますから。
誰かにすがっていたら、その人の言うなりじやないですか。
人それぞれ姿形が違うように、運命も皆違うのですから、
誰もしないことを開拓しなければダメだと思っています。
ですから安全な道はなるべく通らない。不安な道や未知の道を通っていくとか、獣道を選ぶとか。
大通りはつまらないと思っている人間で、それがいまでも続いています。
そういう性質ですから、画家としては食べることができませんので、
絵本を描いたりして生業(なりわい)を繋(つな)いできた。
ただ、それもやってるうちにちやほやされて、
児童の教育委員会などに出されることになってきました。
だから「これはいけない」と思って絵本の仕事はやめました。
そうやって、どこへ行ってもちやほやされないように、上手にその道を避けて生きてきたわけです。
-絵の腕はどのようにして磨いてこられたのですか。
磨いてなんかいません。それはいい絵を描きたいですが、
いい絵を描こうといってできるものじゃない。
感覚というものは努力したってダメなんです。
絵は他の人から学ぶことはできない。
ただ、自分のだらしなさが直に現れます。
ですから自分かいつも未知の谷に飛び込むこと。
不安の中に身を投げていなければダメだと思っております。
いつも不安の中に身を置いて、昨日をぶち壊していくということです。
ですから学ぶよりも「壊す」というのが私のやり方です。
そして、過ぎたことを忘れることです。
きょう出品したものはお葬式が済んだ後ですから、もう一度はやれません。
やれば悪くなるに決まっています。
人は「もう一度あの絵を描いてください」と言いますが、慣れると確かにうまく見えますが、
それはコピーです。
描いた本人には気が抜けていて、魂が入っていないのが分かる。
同じ感動は繰り返せないということです。
-それが昨日をぶち壊していくということですね。
もしかしたら私の中に、まだ芽を吹かないものがあるかもしれない、
ひょっとしたら、まだ思いがけないものが潜んでやしないかと、いまだにそんなことを考えています。
そのためにはいつも自分を空っぽにしておかないと新しい水は入ってこないんです。
私に勉強の仕方があるとすれば、いつも自分を空っぽにしておくということです。
-海外で何年かを過ごされたのも同じような理由からでしょうか。
これにはいろんな意味合いがございましてね。
―略―
これから先どう生きようかと思った時に、いままで私を抑えつけていた西洋というものの、
えたいの知れない重圧から逃れるために、そこへ飛び込むほかないと思いました。
絵の勉強というより、西洋がどういうものか、この目で実際に見たいと思って行ったわけです。
そして西洋人の家に暮らしてみて、彼らが何を考え、どうやって毎日を暮らし、
子供を叱るのかといったことを見た。
その結果分かったのは日本人でも外国人でも、真実は同じであるということ。
逆にいくら言葉が通じても、分かり合えないこともあることを知りました。
-おいくつくらいの時ですか。
四十代の頃ですが、七十歳頃にはバブルに浮かれた日本がいやになって、
亡命のつもりでイタリアに脱出しました。
初めは胸がドキドキするほどの感動がありましたが、長くいると居心地がよくなり、
不安や驚きがなくなります。
「これは堕落だ」と。
それで、まだ足腰が元気なうちにと思って、憧れのアマゾンやブラジル、
アンデスやヒマラヤに出掛け、そこで様々なことを学びました。
-生涯現役でいるための秘訣はありますか。
人間は皆、朝起きた時から、安全なほうを選ぶか、不安なほうを選ぶかという
二つの選択肢があると思います。
その時に私は必ず不安なほうを選ぶ癖があります。
そのほうが初めてのことでビックリするから元気が出ます。
とにかく自分をビックリさせないとダメです。
ですからなるべく不安で不慣れなことをしているようにしています。
慣れてしまうと努力しないでうまくできてしまいますから、うまくならないように、ならないように、
なるべく震えるようなところに自分の身を置いていたい。
いつまで経っても得意にならず、性懲りもなくビックリしていたいと思いますね。
最後の最後まで上り坂でいたい
-何かご自身の信条とされてきたことはありますか。
信条なんて大それたものはありませんが、
「群れない、慣れない、頼らない」というのは私の生き方の姿勢かもしれません。
「群れない」は、お付き合いはあまり広めないようにしています。
「慣れない」は、慣れ慣れしくなると感性が鈍ります。
子供の頃、何かを初めて見た時に感動した、あの瑞々しい感性を取り戻したいと思います。
物知りになってくると、つい分かったふりをして、本当のものが見えなくなる。
動物や昆虫なんかを見ていますと、絶対に慣れ慣れしくはなっていない。
絶えず死と生を分けながら、ぎりぎりのところを生きています。
-「頼らない」というのもまさに堀さんの生き方そのものですね。
何事も自分で処理しなければなりません。
誰かにやり方を教えてもらったら、そのとおりにすることになり、
自分で決め責任をとることを忘れます。
-そういう生き方を貫くことが、一生涯修業を続けていくということでしょうね。
そうですね。人に褒められたり、いい気になったりしていると、自分が目減りするんです。
やっぱり最後の最後まで、少しでも、1mmか2mmでもいいから、上り坂でいたいと思います。
そして惨めに死ぬのではなく、生き生きと死にたい、と思っております。
(致知1月号)
堀文子ほり・ふみこ
大正7年東京生まれ。
昭和15年・女子美術専門学校(現女子美術大学)卒業。
27年上村松園賞。
花や木々など詩情あふれる風景を描きつつ、装丁、随筆も手掛ける。
49年より平成11年まで多摩美術大学教授。
著書に『堀文子のことばひとりで生きる』(求龍堂)、画文集に『命といふもの』(小学館)などがある。
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