2014年2月3日月曜日

舞鶴引揚記念館 #5 北のひめゆり



終戦後・・およそ70万人がシベリアに強制的に連れて行かれ強制労働させられて
1947年から日ソが国交回復する1956年にかけて、抑留者47万3000人の日本への帰国事業が行われた。最長11年抑留された人も居たそうです。

その引揚げに使われた船の模型がある。




日本政府は65万人と言ってるがロシア側から76万人の新資料が出てきた。
もっと多いという説もある。




47万3千人の引揚事業・・
どれだけの人が亡くなったのか未だ不明。

死亡が確定したのは3万2千人にすぎない。




日本政府は未だ全容解明の努力すら無い。





酷い話だ。
ロシア兵の逸話は多い。







8月20 日に真岡にソ連軍が上陸、その惨状を祖国に向けて発信していた女性電話交換手12名のうち
10名が局内で青酸カリ 自決を図り、9名が死亡した。

真岡郵便局事件、また北のひめゆり(事件)とも呼ばれる。





北朝鮮に強制連行された人の絶望は想像すら出来ない。






合計14回
27015名の引揚に尽力した船






そして祖国日本の玄関口がこの舞鶴に。




小船に乗って桟橋に。






舞鶴市民が温かく迎え入れたそうだ。








そして一時、引揚援護局で身支度しながら身内の到着を待つ。






その一部が今は公園となり記念館で後世に伝えている。







1958年まで掛かってる。
長い人で13年間





少しの給付金しか払っていない。。




国際法上、捕虜として抑留された国で働いた賃金と、捕虜の給養費は捕虜所属国の負担となっている。

この慣習はハーグ陸戦条約などで確認されているが、

日本政府はハーグ会議でもこの規定採用に反対していた[23]

この規定に基づき、捕虜は帰国時に証明書を持ち帰れば、国から賃金を受け取ることができた。

日本政府は、南方地域で米英の捕虜になった日本兵に対しては、

個人計算カード(労働証明書)に基き賃金を支払った。

しかし、ソ連は抑留者に労働証明書を発行せず、

日本政府は賃金や給養費の所属国負担が慣習として定着していないと主張していたため、

賃金は支払われなかった。



・・自国民を捨てたんやね。。










600万人以上の引揚か。














こんな話もあった。


「クロだ! クロがいるぞ」。抑留者の一人が、岸壁を指さして叫んだ。


56年12月24日朝。井上さんを含め、最後までシベリアにとどめ置かれた1025人の抑留者が、

帰還船「興安丸」でナホトカの港を出航した。その直後、クロが氷の海に飛び込んだ。

ハバロフスクからナホトカまで、約800キロ。だれかがこっそりクロを帰国列車に乗せたのか――。

真相は分からないが、とにかく、クロはナホトカまで来ていた。

「戻れクロ、死んでしまうぞ!」「岸に帰るんだ!」。抑留者たちは甲板で叫んだが、

クロは割れた氷を渡り歩いて追ってくる。氷の間から海に落ちた。


抑留者たちの悲鳴が上がった。




是非クリックして読んでみて下さい。


心支えた捨て犬「クロ」

帰還船追い氷海に…ともに日本へ






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