2012年5月11日金曜日

鹿屋航空基地史料館


敷地の一角にただならぬ、、空気の場所があった。


国旗掲揚台。
國賊・日教組あたりに拝ませたい。

元々、小学校やったものが特攻隊の宿舎になって共に使用。
ココに移設スという内容。


あの桜花で有名な神雷部隊の宿舎やったんかぁ。


零戦開発の海軍側主務者。
後に、零戦のテスト飛行中の事故で殉職する。

 
空母加賀の二階堂易中尉が、急激な垂直旋回中、
主翼の外鈑に大きなしわが発生し、さらに急降下したところ、
外鈑の一部が補助翼とともに飛散した事故が起こった。
同中尉は沈着冷静に操縦して、飛行機を着陸させた。

この知らせを聞いた横空の下川万兵衛大尉は、
自分が実用実験した零戦の事故を解明するには、
まず自分が飛んで見ることであるとし、
たまたま事故機と製造番号が近い一三五号機があったので、
それで実験して見る決心をした。

その急降下で飛行中に、飛行機は空中分解して、
下川大尉は飛行機から脱出することもなく、殉職した。  




その甲斐あって原因追求され改良される。


海軍少佐
のち大尉


その裏には、「遺言」

一、武道奨励
一、至純至誠
一、穏健明朗
一、人和第一
一、責任尊重

昔の人は凄いなぁ。」
今の日本人に欠けてるトコロかも。。


慰霊碑が。


海軍第二五四海軍航空隊

新鋭機天山艦攻で編成された 
日本海軍航空母艦部隊最後の艦上 攻撃機隊

一部は串良にも派遣されて夜間雷撃を敢行ス も
多大の戦果を挙げたが戦友の多くは護國の神と散華した。

 

恵みあらば 永遠に平和の続くよう 国鎮め 南無逝きし 御霊よ


名前を刻んだ石が沢山ある。


飛行隊長筆頭に
部隊員全員であらう人の名が、、。


串良基地跡慰霊塔にはこう記されているやうだ。


碑文


今出撃せんとす  何も思い残すことなし  父母兄姉よ幸福であれ
心爽やかにして大空の如し  こうしているのもあとしばらくです さようなら


太平洋戦争末期斯くして串良  
航空基地より飛立ち肉弾となりて
帰らざりし三百有余の御霊よ 安らかれ
 必ずや平和のいしずえとならん



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