2011年6月23日木曜日

沖縄戦66年目の慰霊の日


けふ6月23日は戦後66年目の沖縄戦没者慰霊の日。

牛島満司令官が自決し
日本軍の組織的戦闘が終わった日とされている。


軍民・日米問わず
犠牲になられた方24万人以上の名前が刻まれている。

今年も新たにわかった二百数十名の名前が刻まれた。


米軍の砲爆撃はすさまじく

1㎡に1000発以上。
「鉄の暴風」と呼ばれたほどやわ。。


沖縄戦では
疎開させる船も米潜に撃沈され



住民を巻き込んだ


不幸極まりない戦闘が繰り広げられた。


動くものは女子供と言えど・・
すべて撃ち殺す。


たとへ赤子の鳴き声が聞こえようとも・・
手榴弾をブチかまし火炎放射で焼き殺したんデス。。


千島の奥も沖縄も
八州 (日本) の国の守りなり・・


沖縄に突入した神風特別攻撃隊は1900機を数へ


3000余名が若い命を散らした。


海軍陸戦隊司令官 大田実少将は
自決直前に本土に打電。

ただつらつらと
沖縄県民の切実な事実を伝えた。

その内容は
涙をさそう以外の何物でも無い、、







そして最後をこう締め括っている。



沖縄県民斯く戦へり
県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを



当時の軍人でこんな事をいい伝えるのは
大田少将以外居ない。




しかし大田少将の願いはかなわず
未だに米軍基地など沖縄に負担させている現状。

不発弾も


遺骨もまだまだ放置されたままである。

今の日本は腐敗してもうて
先の大戦で亡くなられた方々が見たらどう思うだろうか。

鎮魂。


・・・・



昔父は日本人を殺した~
ピュリツァー賞作家が見た沖縄戦~

元少年兵が語る。

米軍はさ、何で抵抗もできない様な民間人を
こんなに無差別に殺したんかなぁと?

米軍への恨みつらみというか
それはずっと持っています・・・・





戦没者遺骨収集を実現させた方たちの想い





遺骨収集



2 件のコメント:

  1. この平和記念公園の平和の礎のオープニングスタッフだった私です。
    村山首相でした。

    今でも思い出しますよ。序幕され、遺族や共に戦った仲間の名前を探す人々の顔を。
    形容出来ません。
    私を呼び止めた方が居ました。
    自分の名前が入っていると。

    事務局へ連絡し対応を任せていたら仰られました。
    「戦後もドタバタしてたしね、気にしていない。
    逆に仲間と同じく名前を彫られて嬉しいよ。
    ただね、私は生き残ったんだよ。
    彼らの分生きて来たんだよ。
    彼らの名誉の為にもさ~…」
    言わんとしている事が解り、席を外しました。

    後日新聞や伝聞で同様の方が結構居たという事、生存者氏名は赤くする事、
    誰も文句は言わなかった事を聞きました。

    暫くして(沖縄の)南部を走っていて立ち寄りましたが赤く塗られていました。
    そして私がセットした序幕用プラ製ガイドの大半がまだ付いたままだった事(撤去スタッフがさぼった)を
    確認しました。

    その赤い塗料は数年経たずに潮風で剥がれて来てましたが、それでいいと思いました。
    完全に落ちる頃には生存者の方々も天寿を全うされているでしょうし、
    何より魂が仲間と一緒になれるのですからね。

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  2. ペンさん・・

    そうでしたか。
    なるほどです。

    今回の東北大震災での貴方様のコメントや日記等拝見して
    ただならぬと思いました。

    沖縄の慰霊碑や神戸の震災経験され、また東北にも・・。

    ***

    生きてるのに名前彫られても怒らないのが
    分かりたい、、理解したい気持ちです。



    この方々から見た今の日本はどうなんでしょうね。。

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