2015年6月1日月曜日

百間排水口




水俣病歴史考証館の人にかつて垂れ流した排水口があるから見学を勧められた。






今は綺麗に見えるんやけどねぇ。







着いた。

四角い四つの排水口









百間排水口は、水俣病原点の地です。



 この排水口を通じて、1932(昭和7)年から1968(昭和43)年まで、

チッソ㈱水俣工場において酢酸等の原料となるアセトアルデヒドの製造工程で副生された 

メチル水銀化合物が工場排水とともに排出され

(一時期、水俣川河口へ排出)、水俣湾は汚染されました。

そのため、八代海(不知火海)一円に水俣病が発生し ました。

百間排水口付近に堆積した水銀を含む汚泥の厚さは4mに達するところもありました。

 

1977(昭和52)年、熊本県は汚泥を除去する公害防止事業に着手し、

約14年の歳月と総事業費約485億円の巨費をかけて、

水俣湾に堆積した水銀ヘドロの埋め立 てを行い、1990(平成2)年、同事業は終了しました。



 水俣湾内の魚介類等の安全性を確認するための調査は現在も継続実施されています。

一度汚染・破壊された環境は、いかに莫大な費用と労力をかけても元に戻す ことはできません。

このことを私たちは人類の教訓として受け止めていかなくてはなりません。



チッソ水俣工場から百間放水路を通って水俣湾に堆積したメチル水銀は100トン、

メチル水銀を含むヘドロ層の厚さは4mもあった。

1977年に水俣湾の埋立開始。1990年に埋立が終了した。

総費用485億円のうち,チッソが306億円を負担し,残りは熊本県と国の公費が投じられた。

メチル水銀に汚染された水俣湾は、58haの広大な公園に作り替えられた。





1974年の状態から・・





58ヘクタールもの広大な海を潰して埋め立てた。 現在はこのようになってる。

かつての水俣港は消滅したんやね。


その跡の埋め立てた場所は現在公園となっている。


名前はエコパーク水俣




どこがエコやねん!!!!!


・と思ってしまつた。







水俣病巡礼八十八ヶ所一番札所


「水俣の88箇所にお地蔵さんを建てたい」

という川本輝夫さんの願いを受けて建てられた「百間排水口」前のお地蔵様。

新潟水俣 病の被害を受けた阿賀野川で採れた石が使われている。


左石碑には、「阿賀の岸から不知火のお地蔵様 水俣病事件犠牲者へ捧ぐ 

鎮魂之聖地 遺恨浄土之地 慟哭永遠之地 平成6年12月吉日 

水俣病患者連盟委員 長 川本輝夫」と記されてある。



川本輝夫さんは元水俣市市議会議員。24歳の1955(昭和30)年より水俣病を発症し、

68歳の1999(平成11)年2月18日に逝去された。

父親もまた1961(昭和36) 年に発病して寝たきりとなり、1

965(昭和40)年4月、もだえ苦しんで亡くなっている。


市議会議員を無所属で三期勤めた最後の市議会では、「

水俣湾を世界遺産 に」と提案した。 






ここがかつての排水口

海底のヘドロは4mにも達し2000ppmも水銀を含んでいた。






今は浄化された工場排水や家庭排水などが流れ込んでいる。






チッソは、水俣病の原因となった有機水銀を

「海は広い。したがって毒は薄まる」として36年もの長きに渡って不知火海へ流し続けた。  

その歴史はすでに過去のものではなく現在同じ様に

福島原発が原子炉内の高濃度水を海へ流した。

この時も東電や御用学者は、「海は広い。したがって放射能は薄まる」

と弁明したんやったねぇ。。






かつての河口も半分の広さにまで埋め立てられ

国内150種、海外160種の竹を植えている。

そこで採れたタケノコを販売しているが

半官半民の店は「武士の商法」丸出しで、当然、開店休業状態らしい。



ワシも食わん。。






看板にも書いてある当たり前の言葉



一度汚染・破壊された環境は、いかに莫大な費用と労力をかけても元に戻す ことはできません。

このことを私たちは人類の教訓として受け止めていかなくてはなりません。



一度潰した自然は二度と戻らんわなぁ。






企業って悪いなぁ。。



でも住民もなぁ。

そういうのを選挙で選んでるんやし。



経済優先じゃ幸せにはなれんよ。。



水俣にしても原発村にしても企業城下町

あぶく銭で儲けた町はそれなりのリスクはあるんやわ。



今も変わらずか。

日本の先はどうなるんやろなぁ。






つづく




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