2015年5月28日木曜日

萬世特攻平和祈念館 ①



知覧を後にして萬世基地跡へ向かう。



金ちゃんに教えて貰ったハイテクで地図も貼れる様になった。

基本アナログなんで弱いんよ。

鹿児島県南さつま市加世田高橋1955番地3





う~ん。





神社かなぁ。 鳥居がある。


そう言えば九州のお寺ってことごとく破壊された様な話を思い出した。




特に明治維新を起こした藩では民衆の参加も狂信的で仏像を始め、
仏具、仏画、 絵巻物、経典、など全てが破壊された。今でも九州には有力な大寺はない。
この時、破 却、廃寺された寺は全国の半分になったという。はっきりした数は把握されていない



何だか残念な話。。





しょうゆも味噌も旨そうやなぁ。





過疎...。





ナビが距離優先か農道を行く。





この石灯籠の並んでる所が昔の基地の営門の跡






慰霊祭がある。

弔うのは大変良い事だと思う。





ここらも昔は陸軍の飛行場だったトコロ。





到着

2015年 4月23日 13時32分





陸軍萬世飛行場建設時の殉職者


地元の勤労奉仕をしてた方々。

空襲があって防空壕に入ったんやけど運悪く直撃弾を喰らい13人全員が亡くなられた。






航空基地全体の慰霊碑もある。










萬世特攻慰霊碑 「よろずに」


昭和19年

太平洋戦争の戦局はとみに悪化し、すでに決定的段階を迎えんとしていた。

ここ加世田市吹上浜の地に、戦勢転換の神機を期すべく地元民学徒ら軍民一致の協力によって、

本土防衛沖縄決戦の基地萬世飛行場が建設された。


昭和20年(1945年)3月28日より終戦に至るまで、

陸軍特別攻撃隊振武体の諸隊、飛行第66戦隊、飛行第55戦隊の若き勇士たちは、

祖国護持の礎たらんと、この地より雲表の彼方へと飛び立った。

一機また一機と。征きて帰らざる者あまた。或いは空中に散華。

或いは自爆。壮絶にして悲絶。その殉国の至誠は鬼神もこれに哭(こく)するであろう。


終戦以来幾星霜、ここに祖国は、その輝かしき復興をとげた。

われら生き残りたる者と心ある人々は、英霊の魂魄(こんぱく)を鎮め、

その偉勲を讃えんがために、ここにこれを建立する。



昭和47年(1972年)5月29日(碑文より)








外観は、パイロットたちが生まれて初めて飛んだ練習機「赤とんぼ」の複葉型を模し、

大屋根は平和を祈る合掌をシンボル化したユニークな「複葉合掌型」の形をしている。



平成5年(1993年)に開館







あ。





裏に...。













萬世飛行場とは・・


南方作戦の激化にともなって、知覧飛行場だけでは運用に支障をきたすようになり、

急遽、加世田市万世に補助飛行場が造られた。

急造のため滑走路は短く、土を固めただけのものでした。


飛行場の使用期間が約4ヶ月間と短かった事と、

偽装されアメリカ軍偵察機にすら発見されず、萬世飛行場は「幻の特攻基地」と言われている。

昭和47年(1972年)に、飛行場跡地の一角に、万世特攻慰霊碑「よろずよに」が

建立され、さらに平成5年(1993年)には、「加世田市平和祈念館」が開館した。


終戦直前の昭和20年(1945年)3月から7月までの約4ヶ月間に、

201 人の特攻隊員が沖縄に向けて出撃し、帰らぬ人となった。








子犬を抱きながら微笑んでいる飛行服の少年達。






全員の名前が判明している。

陸軍特別攻撃隊 第72振武隊

第72振武隊は10名中7名が10代の飛行兵だった。




昭和20年(1945年)5月26日、出撃の2時間前に萬世飛行場にて撮影された。

しかしその日は悪天候で取りやめとなり

翌朝、5人の若者は、特攻隊として沖縄の空に出撃し散華された。


http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2579061&id=27754482





写真中央で子犬を抱く少年の名は、荒木幸雄少尉。

特攻後、ニ階級特進、少尉となる。



群馬県 桐生市出身

当時17歳と2ヶ月









どんどん右傾化する現在に危惧する。






当初、写真はひとり歩きし、知覧飛行場から出撃したかのように。

しかし撮影場所は「萬世飛行場」



荒木少年が、宿舎から父親に宛てた最後のはがきのから判明する。



陸軍伍長 荒木幸雄


父に宛てた遺書が残されている。



最后(さいご)の便り致します

其後(そのご)御元気の事と思ひます

幸雄も栄ある任務をおび

本日(廿七日)出発致します。

必ず大戦果を挙げます

桜咲く九段で会う日を待って居(お)ります

どうぞ御身体を大切に

弟達 及 隣組の皆様にも宜敷く さようなら 






兄へむけた遺書


兄上様、永い間御世話に預り有難く御礼申上げます。

何も思い残すことなく死んでゆけます。
只一筋に当たるのみ。
今迄何等恩返しも出来ず申訳ありませんでした。
此度の出動は幸雄の御恩返しと思い御喜び下さい。
戦局も益々苛烈を極める今日、十八歳の身にて敵に当たるは当然の事なり。
兄上様にも今年入隊の事と思いますが、
何事も御努力と誠心誠意軍務に勉励されんことを切に祈ります。
御両親様と弟を頼みます。
特に三人の弟には良く御訓育なされ
将来立派な日本人として自分の後に続いてくれる様御願い致します。
九段の花の下でゆっくり会いましょう。


御兄上様                   幸雄




出撃当日の消印が押され、宿舎の住所が川辺郡加世田町飛龍荘内と書かれていました。

この一枚のはがきが、「万世飛行場」から出撃した証となった。













平成4年(1992年)に吹上浜より引き揚げられた日本でただ一機の旧海軍「零式水上偵察機」

2011年12月、日本航空協会「重要航空遺産」に認定された。

この認定制度は、日本航空協会が歴史的、文化的に価値の高い航空遺産を後世に残すために

2007年に設けたもので、この零式水上偵察機は6件目の認定。




見つかった海底の様子を表現してある。






装備品に価値とは・・





この機体から突き出した棒

当時には珍しい電探(レーダー)

確か八木式アンテナやったかなぁ。


現存はこれのみ。






よく残ってたなぁ。





















確かに

植民地を失って敗北したのは欧米列強。


奴隷として虐げられたアジアを開放したのは日本であったのも事実。





この基地から飛び立ち

散華された201名を慰霊する一枚の紙から折られた201羽の鎮魂の折鶴






陸軍の三式戦 飛燕

知覧に実機があった。





萬世では8割以上がこの機やったんやね。





日の丸。









物資のない日本は何と竹製もあった。





確かに竹。





これではアメリカに勝てん。。





落下傘













三人乗りの水偵





ペラが曲がっていないのは不時着時にエンジンが止まってたんやね。









こんな航空機





全員助かってる。






































尾翼はほとんどない。






でも本当によく残ってたなぁ。。。

凄い迫力。







鹿屋で見たあの零戦


自衛官が二個一でレストアしたんやね。






つづく








0 件のコメント:

コメントを投稿