2015年5月25日月曜日

富屋食堂  ホタル館




武家屋敷もさんざん見たナァ。。。










綺麗な川やね。






ホタル居るかなぁ?









ココが無料の駐車場。。。





さて次は・・



知覧といえば陸軍最大の特攻基地


陸軍の全特攻戦死者1,036名のうち、半数近い439名が知覧から飛び立ったのである







富屋食堂  ホタル館へ



鳥濱 トメ(とりはま とめ、1902年 6月20日 - 1992年 4月22日

軍指定食堂になった富屋食堂の経営者。

富屋食堂は出撃前の特攻隊員たちの憩いの場でした。

トメさんは、隊員たちから母のように慕われていました。


そして私財をはたいて多くの特攻隊員の面倒を見て、“特攻の母”と呼ばれた。






この建物は当時と同じ場所に 映画『ホタル』の時に再建され、現在は資料館となっている。

トメさんのお孫さんがやってるんよ。











映画『ホタル』は、2001年公開の降旗康男監督、高倉健主演の日本映画

東映創立50周年記念作品。

鉄道員〈ぽっぽや〉」の降旗康男監督と高倉健が再タッグを組んだ人間ドラマ。

特攻隊の生き残りである漁師が昭和の終焉に直面。

不治の病に侵された妻とともにある“旅“に出ることを決意する

第25回日本アカデミー賞で13部門ノミネート。

高倉も主演男優賞にノミネートされたが、「後輩の俳優に道を譲りたい」として辞退した。







この資料館の名前にもなっているホタルの話とは・・




「宮川三郎少尉」(20才)   


宮川少尉は、知覧に来る前、万世飛行場から一度特攻に出撃しています。

しかしこのときは機体が故障して、引き返している。


「自分ひとりだけが生き残った」

そのことを宮川さんは大変気にしておられました。



ようやく代わりの飛行機がもらえた宮川さんは、

出撃する前夜の6月5日に、一緒に出撃する仲よしの滝本恵之助曹長と二人で、
富屋食堂にやってきました。

二人は、「明日出撃です」と、ごきげんでした。

そしてその日は、ちょうど宮川さんの20歳の誕生日でした。

トメさんは、宮川さんのために、お赤飯を炊いてあげていました。

二人はお赤飯を、おいしいおいしいと召し上がっていました。

その帰りがけ、宮川さんが、突然、気がついたように言ったのです。



「おばさん、俺、明日も帰ってくるよ。ホタルになってね。

滝本と二匹で。だからおばさん、追っ払ったらだめだよ」



まるで、冗談のような口ぶりでした。

トメさんは、食堂にくるときどこかでホタルでも見かけたのだろうと、

そのときは気にもとめませんでした。



翌6日は、どんより曇った日でした。

この日は総攻撃の日で、朝から特攻機がどんどん飛び立ちました。

トメさんも見送りに行きました。



その日の夜のことです。

出撃したはずの滝本さんが一人でひょっこり食堂にやってきました。

二人は編隊を組んで飛び立ったのですが、どうにも視界が悪い。

そのため、何度も滝本さんは宮川機の横に並んで、

「視界が悪い。引き返そう」

と合図を送ったそうです。



けれど、宮川少尉はその都度、手信号で、

「俺は行く。お前は帰れ」と合図しました。

何度か目の合図のあと、滝本さんは引き返しました。

宮川さんは、そのまま雲の彼方に消えていかれました。


滝本さんは、その話をされながら、

「宮川は開聞岳の向こうに飛んで行ったよ」と言って、涙をぽろぽろとこぼしました。



夜の9時ごろです。

食堂には、トメさんの娘さんが二人と、滝本さん、奥の広間には、

明日出撃予定の隊員たちが7〜8名いて、遺書を書いていました。



トメさんは、なんとなく不思議な気持ちになって、

食堂の入り口の戸を、すこしばかり開けました。

すると、それを待っていたかのように、一匹のホタルが、

ふら〜と食堂にはいってきて、天井の梁のところに、とまりました。



それは、とても大きなホタルでした。

大人の親指くらいの大きさがありました。

ホタルの季節には、まだ少し早いです。

そんなに大きなホタルがいること自体が、不思議です。



そのとき、娘の礼子さんが、

「あっ、宮川さんよ。宮川さん。ホタルになって帰ってきた!」と叫びました。



滝本さんもびっくりされた様子でした。



トメさんは、みんなに言いました。

「みなさん。宮川さんが帰っていらっしゃいましたよ」



その場にいた全員で、何度も何度も「同期の桜」を歌いました。

涙がとめどなくあふれました。



ホタルは長い間、天井のはりに止まっていました。

歌が終わったとき、ホタルは、すっといなくなりました。








宮川少尉は約束通り帰って来たんやね。

資料館の天井の梁にホタルの場所を示す印がありました。







宮川少尉の同僚の滝本さんが犬死だ・と涙したのに

なぜ宮川さんは逝ってしまったのか?




なぜなら・・


一度でも、機体不良ですら、、特攻に失敗すると


という隔離施設に入れられ再教育という名の

「何で死んでこなかったという罵倒を浴びせられる」



帰還特攻隊員は帰還の直後に福岡の司令部に出頭命令が下り、

即座に振武寮にて事実上の軟禁状態に置かれることになる。

振武寮の日々は反省文の提出、軍人勅諭の書き写し、写経など

精神再教育的なものが延々と続けられた。

死して軍神となるはずの特攻隊員が生きて戻ってきたことは激しく非難され、

「人間の屑」「卑怯者」「国賊」と罵られたという。

振武寮の目的は帰還隊員にもう一度死を覚悟させて特攻に赴かせるものであったともいわれ、

隊員のなかには精神的に追い詰められ、自殺を図る者もいたといわれる。



その振武寮管理者は

陸軍の特攻を指揮した菅原道大中将部下の倉澤清忠少佐。

倉澤は印刷会社の役員になったものの、1945年の終戦から1996年までの51年間もの間、

生き残りの特攻隊員や遺族の報復を恐れて、軍刀拳銃を隠し持っていた。

「多くの隊員を出撃させたので、恨みに思われるのは仕方ないし、遺族からも反感を買っているので、

いつ報復されるかわからないと、夜も安心して寝ることができなかった。

80歳までは自己防衛のために、ピストルに実弾を込めて持ち歩き、

家では軍刀を手離さなかったんです」と告白している[1]

拳銃は「敗戦時に父に預けたものが遺品の中から偶然出てきた」として警察に提出し、

そのまま認められたという[2]

倉沢の証言は、作家の林えいだいが聞き取る形で2003年に4度にわたっておこなわれ、

その年の10月に倉沢は86歳で世を去った。










倉沢は



みたいに報復を恐れたんでしょうね。






若人の命を軽々しく思い

自分たちの利益や権力だけを誇示する。


現在の日本と何ら変わりは無いんちゃうかなぁ。


これからの日本に必要な人こそ死んでしまって

どうしようもない人間が生き残って現在の利権日本国という国が出来上がったのかも知れません。









特攻をあまりにも美化してはいけないと思うが・・






ココには純粋に国や親を思い自分の命を犠牲にして守りたかった人が沢山居る。






悪魔も真剣に見てた。







中は撮影禁止デス。。





富屋旅館も隣にある。


遺族を泊める為にに昭和27年に建てられた。




壁の色はあの武家屋敷で見た色かなぁ。







当時の富屋食堂







戦中は特攻に往くまだ少年の面影の残る隊員たちの為、

私財を投げ売り、お世話して

あまりに親身に尽くすものだから甘やかし過ぎだと憲兵にしょっぴかれて殴られ

隊員が憲兵検閲を避けるためにトメに託した手紙を代理で投函したほか、

個々の隊員の出撃の様子を自ら綴った手紙を全国の家族のもとへと送り続けた。


戦争が終わった後も特攻基地後に一本の墓標を建てて

散華された特攻隊員の英霊にくる日もくる日もお参りされた。

そしてかつて自身の担任教師でもあった当時の知覧町長に再三働きかけたことにより、

飛行場の一角に特攻平和観音堂の建立が実現し、

その観音堂参りがその後のトメのライフワークとなる。

後に隣接して知覧特攻平和会館などが観音堂の周辺に建設されることとなる。





1992年(平成4年)死去。享年89









鎮魂






















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