2015年5月20日水曜日

2015 串良海軍航空基地 地下壕電信司令室跡 



鹿屋基地から次の目指す場所へ


九州上陸初日の2015年 4月21日 14時33分






道中のオサレなエアストリーム。





去年はさんざん迷って観光課の方のお世話になってもうたなぁ。。





今年はコレに従い

まずは串良平和公園へ




串良平和公園の住所 鹿児島県鹿屋市串良町有里5183-1







野球場そばの・・またこの看板の前に立つ。


去年見たから公園は超略して・・



個人宅に声を掛けて鍵を借りる。

去年も来たから電気のつけ方も分かってる。






廃屋との間を通り・・





見えた。





家の裏、畑の中にひっそりと。






戦争関連に興味を持ち始めたガボちゃんに見せてあげたかったんよ。





今からたった70年前にここで特攻隊の最後の電信を聞いていた。





この場所。






かなり巨大ですね。





地上部分は僅かに顔を出しているのみ。





鍵を開けて電気を付けて見学させて頂く。






ここは神聖な場所である故


深々と礼をしてからお邪魔させて頂く。




地下に降りる階段





図では踊り場入れて18mもあるんやね。





型枠がバラ板

昭和40年代くらいまでそうやったなぁ。





今年もカメラは去年と同じ

FUJIFILM X-E1と標準ズームレンズXF18-55mmF2.8-4 
と OLYMPUS OM-D E-M5 超広角レンズLUMIX G VARIO 7-14mm/F4.0 ASPH




降りた踊り場に小部屋

機械室かなぁ?






この横の通路を通って・・





大きな部屋に出た。

広さは15mの4m





後ろを振り返る。

後付けの木の仕切りがあるトコロから入って来た。






串良海軍航空基地 地下壕電信司令室




串良海軍航空隊の歴史は浅く 昭和18年4月1日開隊

はじめは教育航空隊として開隊されましたが、

戦争末期、昭和19年には実践部隊に編入され、

本土決戦に備え串良海軍航空基地の整備が進められました。

さらには特別攻撃の出撃基地となりました。

先に見学した 鹿屋海軍航空基地からは908名、

串良海軍航空 基地からは363名の特攻隊員が出撃し、その尊い命を失いました






基地の平面図

この地下壕は空襲を避けるために滑走路から離れた場所に設置された。





特攻隊の命が尽きる



突撃前に送る最後の通信とは・・



「ワレ・・突入ス」




の無電を最後に

操縦桿を押し込み急降下



そして電信機のボタンを押す。



そうするとツーという長い電信が尾を引く


その音が消えた時がまさに突入した瞬間か撃墜された瞬間。











4秒以内なら墜落失敗

それ以上で途切れたら特攻成功という様な戦果を知るために使われていた。




しかし・・その音が消えるという事は

今まさに貴重な若き命が失われたという事なのである。






米軍の対空砲火の弾幕は凄まじい





丸で囲まれた部分が特攻機






急降下爆撃機ならいざ知らず

零戦とかは急降下に耐えれる機体で無いので・・すぐ機首が浮く

それを火だるまになりながらも操縦桿を押し込んで突入する。








その最後の命のともしびであり・・最後の断末魔といえる電信を聞いていた場所なのです。







それがたった70年前の出来事。

偉いさん達はここでのうのうとしてたんかなぁ。









2m近くある分厚いコンクリートに守られている。

いつの時代も犠牲になるのは若い人たち





15m×4mの電信司令室横には通路がある。

アフロが邪魔や。。





そこから上に空気孔が開いてる。


地下10m以上の深さだと思う。

米軍の1トン爆弾の直撃にも耐える様にしてるはず。






屋根が無いから雨が入ってくる。





反対側の出入り口の階段





12.5mの長さの階段。





裏は竹林と畑





登って来た階段を下る。





ヒンヤリしている。





何度も想う。


この部屋から特攻機の最後の電信を聞いて居たんかぁ。。






特攻とはなぜ生まれたか。







大戦末期


米軍との圧倒的物量を見せつけられ敗戦濃厚な日本軍は

何とか和平の道を探るべく

その前に米艦隊に一矢報いて条件を有利にしたかった。



そして戦艦大和以下艦隊を突っ込ませるには

敵空母の艦載機が大いなる驚異であった。



しかしその頃フィリピン・マバラカットにあった兵力は零戦がたったの40機ほど

敵艦隊は1000機を超える。


40機ではまともな作戦など立てようもない。



その為に敵空母の甲板に穴を開けさえして、敵の航空機を飛びたてないようにすれば。



その間に戦艦大和以下、連合艦隊の艦砲射撃で敵輸送船団を壊滅させ

戦争継続の為には絶対守らなければいけない要所を押さえるという為、

零戦に250キロ爆弾を搭載しパイロット共々突っ込むという

局地的な作戦の為に生まれたのだった。




考案者は大西瀧治郎中将

その考案者ですら 「特攻は作戦の外道」 と言っていた。





俺も後から行くと特攻隊員に言っていた大西瀧治郎中将は


終戦の翌日、自宅にて割腹自決

介錯をよしとせず二十時間苦しんで英霊との約束を果たした。







当初の頃は華々しい戦果を挙げた特攻も

米軍の綿密な分析と用意周到な防御によって成功率は低下して行く。



最近の日米の資料を照らし合わせると。

数字で言えば10機に1機しか成功していない。




橋にぶつかれと言われて

せめて輸送船でもいいから敵艦に体当たりさせて下さい・というと

贅沢言うな・・・とか。



故障で帰って来た者には卑怯者とか。




最後の頃には成功いかんではない、、

とにかく死んで来い、、。




・と無茶苦茶になった。







昔はこういう部分を伏せてたんやけどね。







自分は幼少の頃より、右や左も、相反する書物を読んで

いろいろ考えていた。



その頃、日本は超左翼主義だった。

日教組が日本軍は悪だという事を教え込んでいた。

それに意義を唱えると

親は呼び出され学校に来るな・とも言われた。




でも今の日本は右傾化が進んでる。



ヘイトスピーチとかおおよそ日本人とは思えない恥曝しが台頭している。

同じ民族かと思うと恥ずかしい。




日々の生活の不満をすり替えてるだけじゃないのか?






そして政治も利権主義で腐敗だらけの自民党

アメリカの犬になりさがってるわなぁ。。



英霊も草葉の影でさぞ悲しんでおられる事だろう。















様々な想いを胸に深くお辞儀をして地下壕を後にする。







ん!?





コウモリか。







かわいいなぁ。






今から70年前

価値観からすべてが違う。


たった70年・・

おちおちしとるとまたすぐそうなるよ。




















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