2015年5月26日火曜日

2015 知覧特攻平和会館 ① なでしこ隊










特攻隊員と






母の像






やすらかに






ココ知覧は陸軍の基地なので陸軍の正式採用機である一式戦闘機・隼のレプリカが置いてある。







右の翼下に25番 (250kg爆弾) 左の翼下に増槽タンクを搭載している。

これだけの重量物を搭載してよろよろと飛び立って行った。


その為に敵の戦闘機との速度差は200km近く

その多くが撃墜された。






当時の写真。






零戦との違い







実物に比べシャープさがなぁ。。






この映画の撮影用に作られた。








俺まだ19だから・・

後の30年の寿命、、

おばちゃんにあげるよ。






まずは資料館に行く前にお参りに行く






特攻隊の歌






君の笑顔に昭和責めらる。

誰も戦争責任取ってないからなぁ。。






全国の遺族からのが沢山並んでる。






残された遺族は沈痛の思いやろなぁ。。






昭和17年、大刀洗陸軍飛行学校の知覧分教場として開設され、

少年飛行兵や特別操縦見習士官が訓練を重ねたが、

戦局の悪化に伴い昭和20年、本土最南端の陸軍特攻基地となり多くの特攻隊員が出撃した。
 


















ひときは巨大な・・






特攻の母 トメさん。

知覧基地が本土最南端だったということもあり、全特攻戦死者1, 036名のうち、439名

(中継基地となった徳之島・喜界島を含む)、全員の半数近くが知覧基地から出撃しています。




当時の様子

































































残念ながら世界中で戦争や紛争の起こらない時は無い。
















お線香を買って供える。






まだ会館前なんで。 自分らの分しかないけど。











特攻平和観音






敷地の一角に復元された兵舎がある。






敵の偵察機から隠すために山の中に半地下で作られている。











中は暗く天井が低い。






飛行機の残骸






爆弾の後部






ジュラルミンの劣化が酷い。






主翼の下の車輪






粗末な布団






特攻隊員が出撃前の数日を過ごした。






この中で遺書をしたためた。











どんな想いで居たんかなぁ。


硫黄島陥落後、

B29の空襲だけでなく

敵戦闘機まで飛んできて民家にまで機銃掃射する様になった。


それも女、子供にまで

敵のパイロットからも見えてるんやけどね。








かの石原慎太郎も子供の頃に機銃掃射を受けている。



遮蔽物の無い芋畑で、敵戦闘機がやって来て、

ぐんぐん近付いて来ると風防越しに

ヤンキーの顔まで見える。


今まさに撃たれると思い伏せたら

撃たないで一目散に逃げていく


なぜ?・・・・




後ろから日本軍戦闘機が二機やって来て追いかけて行った。



その時に見た胴体に描かれていた巨大な日の丸が目に焼き付いて離れない

・とインタビューで答えてた。



追いかけて行った日本軍戦闘機乗りからも子供が見えたはず。

だから日本軍戦闘機はよく全弾撃ち尽くすと

敵戦闘機に体当たりまでする事もあった。



それで冒頭の映画を作ったんやね。







彼ら特攻隊員はエリートやから特攻では敵空母を沈める事が出来ないのはよく知っている。






しかし



自分の命と引き換えにでもその甲板に穴を開ける事が出来たなら・・






そういう気持ちで向かったんだと思う。












特攻隊員のお世話をしていた

知覧高等女学校の生徒も被害にあっている。









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