2014年5月31日土曜日

長崎平和公園 ①




この桜の木は1912年にアメリカに贈った桜の子孫で87年ぶりに日本に里帰りしたらしい。




1912年(明治45年)3月に当時のアメリカ合衆国大統領ウィリアム・タフトの夫人が、
日本の桜を米国の首府ワシントンのポトマック河畔に植えたいと考えている
ということを知った当時の東京市長尾崎行雄が日米親善記念
、及び日露戦争の際に米国が日本に対して好意的だった事への謝意もこめて
荒川堤並木の桜を穂木とした苗木を米国に贈り、
その桜がポトマック川の入り江のタイダルベイスンジェファーソン記念館付近に植えられた



初の日本旅行からアメリカに帰国し、公共施設・公有地庁のアメリカ陸軍管理者に対して
埋め立てが行われたポトマック川河畔沿いに桜の木を植えることを提案した。
この提案は拒否されたが、シドモアはすべての管理者にその後24年間提案し続けた。

いまでは全米桜祭りが開催されて桜の名所となってるらしい。
日本の桜はアメリカ人の目にも美しく映るんやろね。




平和の母子像




あれから四十余年・・

いま第二の核戦争へとシグナルは点滅し地球は破滅の淵にある




今も危機かと思うでよ。。





長崎市の田上富久市長は、長崎に米軍が原爆を落としてから68年となる9日、平和 祈念式典で、
安倍政権が核兵器の非人道性を訴える国際的な共同声明に賛同しなかっ たことを指摘、
「被爆国としての原点に反する」と強く批判した。














原子雲の下で

母さんにすがって泣いた

ナガサキの子供の悲しみを

二度と、くりかえさないように。



大砲の音が

二度となりひびかないように

世界の子供のうえに、いつも

明るい太陽が輝いていますように。





しかしその願いは空しく世界で砲声の鳴り止んだ日は無い。









電気通信労働者 原爆慰霊碑




いのちの
 かぎり

消えぬ
 被爆の憎しみを

いかに
 伝えむ

澄みし
 この瞳に




二度と過ちを繰り返さないのは、まずアメリカに言うてくれ。





長崎には多種多様の慰霊碑があるらしい

朝鮮人犠牲者追悼碑、建設労働者職人慰霊碑、電気通信技術者慰碑、国鉄原爆死没者慰霊碑、長崎新聞少年慰霊碑


一つでいいような気もする。





公園の脇を流れる川
当時の様子









ココが爆心地。









被爆当時の地層もあるらしい。




反応なし。







無差別爆撃

男手は戦地に駆り出され、犠牲者の七割は子供や女性、老人











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